まず結論から
- 「わざとどもる」練習(随意吃)は思いつきではなく、1930年代に始まった吃音の治療の流れのなかで中心にあり続けてきた技法です。
- 日本語の公的な解説にも、学齢期以降の訓練として「随意吃(わざと吃る)」が、吃音への過敏さや情緒反応を減らす目的で挙げられています。
- 吃音のある成人206人への調査では、自分の実際のどもり方に近い形でやったときのほうが、気持ち・行動・考えの面での手ごたえを強く感じたと報告されています。
- 音読の実験では、わざと繰り返しを入れた条件のほうが、何もしない条件より吃音の頻度が有意に低くなりました。ただし同じ論文が、話す速さも一緒に変わるので「随意吃のおかげ」とは結論しがたいと書いています。
- やり方はその人の吃音への感情の反応しやすさに合わせて調整すべきで、少なくとも最初のうちは何の手ごたえも感じない人がいることにも注意が促されています。
ただし、逆説志向そのものを吃音に使って効果を測った研究は、この記事が参照した資料のなかには一件も見つかりませんでした。ここで示せるのは「同じ向きの発想が吃音の臨床に実在していて、そちらには測られた結果と、研究者自身が付けた留保がある」というところまでです。
「わざとどもる」は思いつきではなく、治療のなかにある手立てです
まず言葉の整理から。逆説志向は、オーストリアの精神科医ヴィクトール・E・フランクルが提唱したロゴセラピーという心理療法の技法の名前です。「そうなってほしくない症状」を、逆に「もっとそうなれ」とユーモアをもってあえて望んでみる——という手順で、依拠しているのは二つの見方です。不安は、それを恐れたまさにそのときにあらわれること。そして、うまくやろうと望みすぎることが、かえってその望みを妨げることです。症状を恐れる→前もって不安になる→症状が強まる、という輪から、笑いを挟んで自分を一歩外から眺めること(自己距離化)で降りる、という組み立てになっています。対になる技法には「反省除去(dereflexion)」という名前が付いていて、こちらは自分の症状を観察するのをやめ、注意を別のことへ向けかえる手順です。
ここまではフランクルの理論の説明であって、吃音を調べた研究の話ではありません。緊張や「また出るかも」と先に不安になること(予期不安)そのもののしくみは緊張と吃音を扱った記事に譲り、この記事では「向き」だけを持ち帰ります。抑えにいかない、という向きです。
そして、この向きの手立ては、吃音の世界にも別の系統から入ってきていました。それを日本語で最も強い言葉で言い切った人の記録から見ていきます。
当事者本人(伊藤伸二・日本吃音臨床研究会会長。1965年に言友会を創立、元・大阪教育大学教員/本人名義の自伝ページ)
僕の言語障害研究室には、全国から大勢のどもる人が、学生や研究生となって集まった。その人たちと、吃音の症状ではなく、消極的な行動、問題との直面を避ける、吃音に悩む人の人生について語り、考えた。「どもる人の悩みが深いのは、吃音は治るとの期待を根強くもつからだ。そのため、吃音が治ったら~しようと考えてしまう。治ることを目標にし、治す努力をすれば、自分の人生は見い出せない」と、「吃音を治す努力の否定」を提起した。これまで誰もが、正しいことだと信じて疑わなかった「吃音を治す」前提を、どもる当事者が取り去ったのだ。
自助グループを立ち上げ、のちに大学で言語障害の教員養成にあたった人が、自分の来歴を振り返ってこう書いています。研究室に集まった人たちと話し合っていたのは症状ではなく、避けてきた行動と、これからの人生のほうでした。そこから出てきたのが「治す努力の否定」という提起です。専門家からではなく、どもる本人の側から「治すことを目標にしない」が出てきた——という順序が、この記録の要点です。一方、海外の吃音臨床にも、流暢に話せるようになることではなく、吃音を受け入れられるようになることと、吃音にまつわる恐れと不安を減らすことを目標に掲げてきた流れがあります。
出典: 伊藤伸二の人生(日本吃音臨床研究会)(台帳: V0124)
成人の吃音の治療は、大きく二つの流れに分けて説明されます。一つは気持ちや不安のほうに向き合う流れ、もう一つは話し方そのものを組み立て直す流れです。前者の流れは1930年代に始まり、そこで中心にあり続けてきた技法が「わざとどもる」練習(随意吃)でした。原典はこの技法の出どころを、フランクルではなく、心理学者ナイト・ダンラップの「ネガティブ・プラクティス」に置いています。系統は別で、向きだけが同じ——ここは押さえておく価値があります。
この流れが目指しているのは、流暢に話せるようになることではありません。原典は目標を三つ挙げています。吃音を受け入れられるようになること、吃音にまつわる恐れと不安を減らすこと、そして、より少ない力で吃れるようになることです。わざとどもる練習は、そのなかで、こわいものに易しいほうから順に慣れていく手続き(専門的には脱感作と呼ばれます)の具体的な手立てとして置かれています。
日本語の資料にも、同じものが載っています。国内の研究プロジェクトによる治療の解説は、学齢期以降の訓練として、吃音への過敏さや情緒反応を減らすために、ロールプレー・楽に軽く吃る練習とならべて「随意吃(わざと吃る)」を挙げています。裏技でも民間療法でもなく、専門職が使う訓練メニューの一つとして書かれているということです。
発想の筋としては、もっと古い記述もあります。1982年の臨床論考は、回避によって吃音の症状を隠そうとする試みは逆説的に吃音を持続させると述べ、その回避のほうに手をつけると自然に話せるようになると論じました。近年でも、学齢児向けに提案された臨床の枠組みが、「どもりやすい環境をつくる」ための手立ての一つとして随意吃を位置づけています。半世紀を挟んで、同じ向きの線が引かれ続けているわけです。
「治そう」とするほど、追いかけてくる
とはいえ、多くの人がまず試すのは逆の方向です。力を込めて押し切る、意識して抑える、練習して直す。「治したい」という気持ちは自分にも当然あったと書く人が、これから面接に向かう中学3年生に宛てた手紙が残っています。
当事者(面接を控えた中学3年生へ宛てた経験者4名の手紙のうち、公立と私立を併願した当時を回想する成人の書き手)
治そう治そうとあがけばあがくほど、どもりという亡霊はついて来てしまうのです。矯正所で治らず、言友会に訪れる人のなんと多い事か、今やこのような民間の矯正所はほとんど潰れてしまっていると言っていいです。
高校受験の面接を控えた中学3年生に宛てた、経験者からの手紙の一節です。書き手はこの直前で「薬を飲むように治ればなんと楽な事でしょう」と書き、それでも治そうとし続けることを止めたほうがいいと説いています。手紙はこのあと、話す場から逃げないでほしいという頼みへ続きます。抑えるのをやめる代わりに、避けるのもやめる——順序が入れ替わっているのが分かります。研究の側も、この入れ替えと同じ方向を向いた記述を残しています。
出典: 小中高校生の吃音のつどい(NPO法人全国言友会連絡協議会)(台帳: V0073)
吃音に特有の、なめらかに出ない現象(研究では非流暢と呼ばれます)について、ある考察論文はこう書いています。それは反応的なもので、戦略的なものではない。そしてしばしば、その人が「どもりたくない」と最も強く思っているまさにそのときに起きる、と。「意識しなければ出ない」という読者の実感とは、向きが逆になっている記述です。
力み方についても、同じ向きの記述があります。社会的なプレッシャーのかかる場面での発話を調べた研究は、考察のなかで、多くの吃音のある成人が取っている「力を入れる・押し出す」という対処は、おそらく裏目に出ていると述べました。同じ考察は、話すことへの不安が強い人ほど、易しい場面から順に慣らしていく手続きから利益を得られるはずだ、とも書いています。
ただし、これはこの研究の結果からの推論であって、その手続きの効果を検証した結果ではありません。「押し切るのをやめたほうがいい」という助言そのものが試されたわけではない、というところは正確に受け取ってください。
「意識しないようにする」と「気にならなくなる」は、別のこと
ここで、この語を検索する人がいちばん踏みやすい段差に触れます。「意識しなければどもらない」という考えです。逆説志向も随意吃も、この考えの外に出ようとする手立てなのですが、そのまま「意識しないようにする」を目標に置くと、意識しないことを意識するという、出口のない輪に入ってしまいます。
当事者本人(発表時50歳・病院長。13歳の国語の朗読で立ち往生してからの37年を語った、自助団体の発表記録)
13歳の時に朗読で立ち往生してから37年間、今50歳ですが、現在でもさきほどもお話したように、相変わらず強い予期不安を感じます。しかし、いつの間にかそれでもなんとかやるんだという気持ちに今ではなっています。これも、一口では言えませんが、その中には森田療法との出会いがあり、またごく最近ですが、インターネットで伊藤伸二さんの存在を知り、その本を読ませていただいて再確認をしましたが、やはり共通して言えることは、普通に生活をしながら、その中で吃音とつきあっていく。強引にねじ伏せるとか、逃げるとかではなくて、たとえどもっても自然にやれることをやっていく、ということです。
13歳の朗読の場面から37年、いまも人前に立つ仕事をしている人の発表記録です。注目したいのは、この人が「不安がなくなった」とは一言も言っていないことです。強い予期不安はいまも続いていると本人が明言したうえで、それでもやる、という位置に立っている。強引にねじ伏せるのでも、逃げるのでもない、第三の置き方がここにあります。研究の側にも、「流暢に聞こえる話し方」と「気にせずにいられる経験」は同じものではない、と両者を分けて論じたものがあります。
出典: 第9回吃音ショートコース【発表の広場】「吃音と私」(日本吃音臨床研究会)(台帳: V0095)
この「別物」は、研究の言葉でも指摘されています。吃音の分野で「流暢さ」という語は、流暢に聞こえる話し方と、自然に出てきて、力まずにすみ、自分の話し方をあまり意識せずにいられる経験の、二つの意味で使われていて、その二つは同じものではない——ある論考はそう書いています。読者が求めているのはたいてい後者ですが、練習や測定が扱っているのは前者であることが多い、という指摘です。
では「注意を逸らす」ことには意味がないのかというと、そこは分けて考える必要があります。単独で読む場合と、声をそろえて読む場合の脳の活動を比べた研究は、考察のなかで、話すことから注意が一般に向かなくなるだけでも流暢さは増しうる、という解釈を示しました。ただし著者ら自身が、この解釈は推測であり今後の確認が必要だと明記しています。
日本語の解説も、この向きに近い書き方をしています。青年期・成人への認知行動療法にふれた箇所で、吃るかどうかにこだわらず楽なコミュニケーションを目標にするほうが、発話行為そのものから注意が外れるので、かえって発話症状も改善しやすいとされています。「意識しないようにがんばる」ではなく、注意の置き場所そのものを別のところへ移す、という組み立てです。
わざとどもる研究は、実際に何を測ったのか
ここが、この記事でいちばん確かめておきたいところです。「わざとどもる」は本当に何かの役に立つのか。手元にある研究は、その問いにどこまで答えているのか。まず、治すことを目標から外した人の手記から入ります。
当事者本人(手記「あるがままに」の書き手。就職活動を経て、現在は会社員としてプログラマーを目指し修行中と本文に記載)
私は今までどもる自分自身が嫌だった。どもることは恥ずべきことだと考え、必死にことばを言い換えてごまかしたり、人と接することから逃げたりするばかりであった。しかし、森田療法の講座を受けて、「吃音は決して悲観すべきものでも、恥ずべきことでもない」、「吃音が治ることはないが、それを受け入れ、自信を持って堂々と話したらいい」と学んだ。この考え方にとても勇気づけられた。吃音の改善を目指すのではなく、吃音を受け入れていくことを決意した。
就職活動がうまくいかず、自助グループの例会に通いはじめた人の手記です。言い換えでごまかす、人と接することから逃げる——書かれているのは、症状そのものより、症状のまわりでしてきた行動のほうです。そこから「改善を目指すのをやめる」という決め方に移っています。ただし、これは随意吃を練習した記録ではありません。この記事で読める当事者の記録はいずれも「治す前提を外した記録」であって、「わざとどもる練習をやってみた記録」ではない、という差はそのまま書いておきます。練習そのものを調べたのは、次に挙げる研究のほうです。
出典: あるがままに(伊藤伸二の吃音(どもり)相談室)(台帳: V0205)
①当事者はどう感じたか。吃音のある成人206人に自作の質問紙で尋ねた横断調査では、自分の実際のどもり方に近い形で、しかも訓練室の外で使ったときのほうが、気持ち・行動・考えの面での手ごたえを強く感じたと報告されました。2025年には、この技法を使った経験のある成人12人に面接した質的な研究も出ていて、恐れと回避が減る・自分で選べている感覚が増す・吃音を受け入れやすくなる、といったことが起こりうると解釈されています。原典は断定していません。
②実験室では何が起きたか。16〜34歳の12人が300音節の文章を4回音読した実験では、力みのない繰り返しを意図的に5%・10%・15%の音節に入れる3条件と、何もしない条件が比べられました。結果、3つの随意吃条件はいずれも、対照条件より吃音の頻度が有意に低くなりました。もう1本、成人10人を対象にした2004年の研究では、音読中の吃音の頻度が4条件のうち3条件でおよそ40%減ったと報告されています。
数字だけを持ち帰らないでください。この音読実験の著者たちは、条件によって話す速さが変わってしまうため、吃音が減った理由を随意吃だと結論するのは難しいと自ら書いています。2004年の研究のほうも、減った3条件には「他人の疑似的などもりを見聞きしただけ」の条件が含まれており、いずれも実験室での音読課題であって、治療の成績ではありません。
③そもそも何をもって「効いた」と言うのか。ここが、この語圏でいちばん語られていない部分です。ある論考は、どもった音節の割合が減ったかどうかだけを見ても解釈は難しく、回避・自発性の低下・力み・予期・参加のしにくさを見落としうる、と指摘しています。同じ論考は、もがきの減少・回避の減少・自発性・柔軟な手立ての使い分け・実際のコミュニケーションへの参加を目標と測り方に置き換える枠組みを示しました。「どもる回数」だけを物差しにすると、この技法が狙っているものが、そもそも測定の外に落ちます。
日本語圏には、この向きの研究がわずかにあります。吃音のある成人への心理的な介入をまとめた系統的レビュー(条件を決めて研究を集め、まとめて評価する方法)とメタ分析(複数の研究の結果を統合して調べる方法)は、心理的介入が心理面の症状の改善に有効だったと報告しています。ただし、統合されたのは主に認知行動療法や、マインドフルネス・受容にもとづく介入で、随意吃や逆説志向を統合した数字ではありません。もう1本、国内の学術誌に載った症例研究は、吃音の回数を減らすことを目標とするのではなく、自分が大切にしたい方向に沿って行動することで生活の質の改善を目標にした、と方法を記しています。1人の症例であって、群を比べた研究ではありません。
そして、この記事のいちばん重要な空白です。森田療法と吃音を扱った研究も、逆説志向を吃音に使って効果を測った研究も、この記事が参照した資料のなかには見当たりませんでした。手記に出てくる森田療法の講座は、当事者にとって確かな転機になっていますが、それは「森田療法に吃音への効果が確かめられている」という意味にはなりません。この二つは分けて受け取ってください。
誰にでも合うわけではない、と原典自身が書いています
「わざとどもる」を紹介している日本語のページは、そろって肯定的です。限界に触れたものは、調べたかぎり見当たりませんでした。けれども原典のほうは、はっきり書いています。まず、変化がどこから来たのかを長い時間で振り返った記録を置きます。
当事者本人(当時31歳の男性。高校2年で吃音が出て、ピアノで入った芸術大学を20歳で中退。自助団体の例会「当事者研究」の逐語記録)
そういう経験を重ねるにつれて、どもりのままでも、社会人として仕事もしていけるかもしれないと思うようになっていきました。それに、治すことに固執することに疲れ果ててきたことも相まって、どもりが治ってから社会に出ていこう、という考えから、どもったままで社会に出ていこう、という考えに変わっていきました。
鍼・整体・催眠まで数年かけて渡り歩いた人が、その後の変化を語った逐語記録です。本人は「あるときピタッとあきらめたわけではありません」と述べ、数年かけて徐々に、と説明しています。変化のきっかけとして挙がっているのは技法ではなく、気を許せる相手に打ち明け、隠さずに話すようになっていった経験の積み重ねのほうでした。研究の側も、わざとどもる練習はその人の吃音への感情の反応しやすさに応じて個別化すべきだ、と書いています。
出典: 【当事者研究】どもりを豊かさの糧にして(日本吃音臨床研究会)(台帳: V0181)
面接研究の結論は、二文でできています。一文目は「起こりうること」の列挙。そして二文目が、随意吃はその人の吃音への感情の反応しやすさに応じて個別化されるべきだ、という指示です。誰にでも同じ強さで勧められる手立てとしては書かれていません。
206人の調査のほうは、さらに直接的です。結論の最後で、当事者は、少なくとも最初のうちは、この方法に何の手ごたえも感じないことがあると臨床家に注意を促しています。「やってみたけれど何も変わらない」は、失敗ではなく、あらかじめ想定されている反応だということです。
進め方についても目安があります。神経発達のさまざまな状態への介入を見渡した総説は、吃音が強まる場面・和らぐ場面といった引き金を特定し、その情報を使って治療をその人向けに調整し、その場その場の揺れに応じることができると述べています。同じ箇所で、強まる場面を見つけたら慣らしていく手続きを組み込み、避けるのではなく段階的に近づいていける、と続けています。一人で最も苦手な場面から始める、という手順にはなっていません。
なお、声が出ずに固まってしまうタイプの吃音に「もっとどもれ」がそのまま当てはまるのかは、この記事が参照した資料からは答えが出ませんでした。上に挙げた実験は音読課題で、力みのない繰り返しを入れる形のものです。難発の方については、独断で試す前に相談してください。
試す前に、相談できるところ
ここまで見てきた手立ては、いずれも治療の枠組みのなかに置かれてきたものです。日本語の解説でも、随意吃は言語聴覚士らが担う訓練メニューの一つとして書かれています。自分ひとりで強度を決めて始めるより、相談できる先を持っておくほうが安全です。
相談先として名前が挙がるのは、ことばの専門職である言語聴覚士と、幼児・学齢の子ども向けの「ことばの教室」です。次のようなときは、抱え込まずに相談を考えてみてください(あくまで目安で、当てはまらなくても相談して構いません)。
- 声が出ずに固まる状態が増えていて、力を入れて押し出す癖がついている
- 話す場面そのものを避けるようになってきた
- 自己流で「わざとどもる」を試してみて、かえってつらくなった
この3つは、相談を考えるきっかけとして一般的に挙げられるもので、特定の資料が「受診の目安」として定めているものではありません。治療全体の進め方は吃音の治療を扱った記事にまとめています。
「逆説志向」を調べたときに陥りがちな3つの落とし穴
落とし穴1 − 「わざとどもれば治る」と読んでしまう
逆説志向を吃音に使って効果を測った研究は、この記事が参照した資料のなかにはありませんでした。似た発想の随意吃については測った研究がありますが、実験室の音読課題で頻度が下がったという報告と、話す速さも変わるので随意吃が理由とは結論しがたいという著者自身の留保が、同じ論文のなかに並んでいます。そしてそもそも、この流れの目標は流暢に話すことではなく、受け入れと、恐れ・不安を減らすことに置かれています。「治す方法」として読み替えると、目標のほうがすり替わります。
落とし穴2 − 「意識しない」を目標に据えてしまう
「意識しなければ出ない」を目標にすると、意識しないことを意識する輪に入ります。吃音に特有のなめらかに出ない現象は、しばしば「どもりたくない」と最も強く思っているときにこそ起きると指摘されています。一方、話すことから注意が一般に向かなくなること自体が流暢さを増しうる、という解釈もありますが、著者自身が推測だと断っています。「意識しないようにする」と「注意の置き場所が変わる」は、別のことです。
落とし穴3 − 一人で強度を上げて、記録も相談も残らない
やり方はその人の反応しやすさに合わせて調整すべきとされ、最初のうちは何の手ごたえも感じないことがあるとも注意されています。だからこそ、いきなり最も苦手な場面で試すのではなく、強まる場面・和らぐ場面を把握したうえで段階的に近づくほうが理にかなっています。そして、どもった回数だけを物差しにすると、この技法が狙っているものは測定の外に落ちます。どんな場面でどうだったかを短くでも書き留めておくと、相談するときの材料になります。
まずは気づいたことを書き留めておくことから小さく始め、言語聴覚士やことばの教室に相談できる場合はそちらが確実です。
よくある質問
逆説志向は「わざとどもれば治る」ということですか?
いいえ。逆説志向を吃音に使って効果を測った研究は、この記事が参照した資料のなかには見当たりませんでした。ただし同じ向きの「わざとどもる練習(随意吃)」については測った研究があり、音読課題で吃音の頻度が下がったという報告と、話す速さも変わってしまうので随意吃が理由とは結論しがたいという著者自身の留保が、同じ論文に書かれています。当事者への調査や面接の研究も、手ごたえの感じ方には個人差があるとしています。
「わざとどもる」練習は日本でも行われていますか?
国内の研究プロジェクトによる治療の解説にも、学齢期以降の訓練として「随意吃(わざと吃る)」が、吃音への過敏さや情緒反応を減らす目的で挙げられています。海外の総説では1930年代以来の中核的な技法とされ、目標は吃音を受け入れられるようになること、恐れと不安を減らすこと、より少ない力で吃れるようになることだと説明されています。
「意識しないようにする」のと「注意を逸らす」のは同じことですか?
同じではありません。吃音に特有のなめらかに出ない現象は、しばしば「どもりたくない」と最も強く思っているときにこそ起きると指摘されています。一方で、話すことから注意が一般に向かなくなること自体は流暢さを増しうるという解釈もありますが、著者自身が推測だと断っています。日本語の解説は、吃るかどうかにこだわらず楽なコミュニケーションを目標にするほうが、発話行為そのものから注意が外れるとしています。
効いたかどうかは、何で測るのですか?
どもった音節の割合が減ったかどうかだけでは解釈が難しいとされています。回避、自発性の低下、力み、予期、参加のしにくさを見落とすからです。吃音のある成人への心理的介入をまとめた日本語の研究もありますが、これは随意吃や逆説志向を統合した数字ではありません。
声が出ずに固まるタイプでも「もっとどもれ」でいいのですか?
原典は、随意吃をその人の吃音への感情の反応しやすさに応じて個別化すべきだと述べています。また、少なくとも最初のうちは何の手ごたえも感じないことがあると臨床家に注意しています。強まる場面と和らぐ場面を把握して段階的に近づく枠組みも示されていますが、声が出ずに固まるタイプにそのまま当てはまるかを直接調べた材料は、この記事が参照した資料のなかにはありませんでした。独断で試す前に相談してください。
まとめ
- 逆説志向はロゴセラピーの技法の名前で、吃音に使って効果を測った研究は、この記事が参照した資料のなかには見当たらなかった。書けるのは「同じ向きの手立てが吃音臨床に実在する」というところまで。
- その実体が「わざとどもる練習(随意吃)」で、1930年代に始まる流れの中心にあり続けてきた技法である。日本語の公的な解説にも訓練メニューとして載っている。
- 目標は流暢に話すことではなく、受け入れ・恐れと不安の軽減・より少ない力で吃ることに置かれている。回避で隠すと逆説的に吃音が続く、という古い臨床論考もある。
- 測られた結果はある。206人の調査では自分のどもり方に近い形ほど手ごたえが強く、音読実験では頻度が有意に低下した。ただし同じ論文が「随意吃が理由とは結論しがたい」と留保している。
- やり方は個別化すべきで、最初は何も感じない人もいる。どもった回数だけを物差しにすると狙いが測定の外に落ちる。独断で強度を上げず、言語聴覚士やことばの教室に相談を。
