まず結論から
- 吃音の特徴として学会の解説が挙げているのは、音の繰り返し(連発)・引き伸ばし(伸発)・ことばを出せずに間があいてしまう(難発)の3つです。作品が描くのはたいてい、いちばん目に見えやすい連発です。
- 同じ人の中でも、吃音の重さは日・週・月の単位で揺れると2024年のレビューが述べています。学会の解説も、調子の良い状態・悪い状態が数週間から数か月続く人が多く、この変動を「波」と呼ぶと説明しています。
- 歌うとき、2人で声を合わせるとき、独り言のときは一時的に流暢になる人が多いとされ、自分だけに向けた発話ではどもらないと報告する大人が多いこともレビューが紹介しています。
- 「流暢に聞こえるかどうか」は目安になりません。500人を超える成人への調査で、約半数が少なくともときどき、聞き手には見えない回避や言い換えをしていたと紹介されています。
- 歴史上の人物の「吃音だった」という話は、書き残されているものと言い伝えとして語られてきたものが混在しています。英国の当事者団体は、裏づけが見つからない名前には疑問符を付けると明記しています。
ただし、ここに並べたのはいずれも「吃音のある人にはこういうことが報告されている」という水準の話で、出方は一人ひとり違いますし、作品の描き方を「間違いだ」と裁くために持ち出すものでもありません。
作品みたいに、吃音はいつも同じように出るんですか?
物語の中の吃音は、たいてい「いつ見ても同じように出る話し方」として描かれます。そう描かないと、読者や視聴者にその人物の特徴が伝わらないからです。しかし、実際に吃音のある人が書いているものを読むと、まず出てくるのは「出るときと出ないときがある」という話のほうです。
当事者本人の声(筆名・砂張 五さん/個人ブログ note)
それが度々、理由はわからないが突然箸が手からポロっと零れ落ち、持てなくなる。不注意だったり手から力を抜いてしまったりしたわけではなく、ただただ何故か持てなくなるという状態に陥る。吃音で言葉が詰まるというのは、それと同じことだ。
厄介なことに「箸を落とさずに食事を終えること」も度々起きるので、不注意でよく箸を落とす人と見分けがつかない。そうなると、怒られたり、落ち着きのない人だと思われたりする。
食事という日常の動作を持ち出して、この書き手は吃音の出方を説明しています。箸が落ちる日もあれば、最後まで落とさずに食べ終わる日もある。落ちる理由は本人にも分からない。そして、落とさずに終わる日があるからこそ、まわりからは「ただの不注意な人」と区別がつかなくなる——そこまでを一続きで書いています。作品の中の人物は物語の都合上、箸を落とし続ける側だけが描かれます。落とさずに終わる時間があること自体が、研究の側でも吃音の性質として扱われてきました。
出典: 吃音の苦しみを壊した話(note)(台帳: V0066)
2024年に出た神経生物学のレビューは、吃音の症状を扱いにくくしている性質として「ゆらぎ・変動・多様さ」を挙げ、同じ人の中での断続性は症状の重さが日・週・月の単位で変わることに表れている、と述べています。同じ段落では、目に見える・耳に聞こえる特徴は、その人の性格や社会的な場面、何を伝えたいか、そのときの気持ちの状態によっても変わるとしています。日本の学会の解説も、調子の良い状態あるいは悪い状態が数週間から数か月にわたって続く人も多く、この症状の変動を(調子の)「波」と呼ぶ、と説明しています。
「どんな場面で出るか」も、作品が描く図式とは少しずれます。学会の解説は、歌を歌うとき・2人で声を合わせるとき・独り言を言うときなどに、一時的ですが流暢になる人が多いとしています。2025年のレビューも、自分だけに向けた発話ではどもらないと報告する吃音のある大人が多いことを紹介しています。
では出やすいのはどんな場面か。2022年の論文は、叫び声・ひとりごと・あいさつのような決まり文句は自動的な処理が大きく、逆に流暢に話すための新しい話し方は意識的な処理が大きいと整理したうえで、そのどちらかに振り切れている発話では、ぶつかり合いが小さいので流暢になると述べています。そして、吃音のある人にとって促されて自分の名前を言うことは、きわめて自動的でありながら、同時にきわめて意識的な行為であり、こうした場面でこそ吃音らしい詰まりが最も多く引き出される、としています。物語の中の「大事な場面でだけ詰まる」という描き方は、この説明の一部分だけを取り出したものになりがちです。
ふつうに話せているように見えるとき、吃音は出ていないんですか?
作品はカメラに映るものしか描けません。詰まっている姿は描けますが、「詰まらずに済むように、言う前に別のことばへ差し替えた」瞬間は描きようがありません。ここが、作品を通じて吃音を知った人がいちばん受け取り損ねる部分です。
当事者本人の声(ハンドル 353さん/個人ブログ「353log」・映画『英国王のスピーチ』を観た感想記事)
そこで、劇中にもあったようにこっそりリズムや抑揚を付けてみたり、何か引っかかりのパーツを言葉にくっつけてみたり(people を a people にしたりしていましたね)、意識的に深い呼吸をしたり、いろいろ試してみるわけです。わたしも電話口で言うことの多い名前、住所、電話番号あたりはうまく言える方法を研究してました。電話番号なら書きながら言えば言える、とか、技があるのです。
吃音の描かれた映画を観るのが長らく怖かった、と書いている書き手が、実際に観たあとで劇中の場面と自分の経験を並べていく一節です。ここで挙げられているのは、どれも聞き手の側からはまず気づけないものばかりです。ことばに小さな部品を足す、書きながら言う、息の入れ方を変える。画面には「うまく言えた」結果だけが映り、そこに至るまでの手さばきは映りません。この「聞き手からは見えない側」については、研究の側にも調査の紹介があります。
出典: 吃音症経験者から見た、映画「英国王のスピーチ」(353log)(台帳: V0256)
2022年のレビューは、聞き手からは簡単には観察できない反応として、音・ことば・場面を避けることや、どもりそうだと感じたときにことばを置き換えることを挙げています。そして、500人を超える吃音のある成人を対象にした調査で、約半数が少なくともときどきそうした聞き手に見えない行動をとっており、10〜20%はしばしば、あるいは常にとっていると答えたと紹介しています。これはレビューが別の研究を紹介している箇所なので、「ある調査でそう報告された」という水準の話として読んでください。
同じレビューは、流暢さを高める技法を使っているとき、聞き手には流暢に話しているように見えても、本人はより大きな努力を払って話している場合があるとも論じています。この、見かけだけ流暢に見える状態には「見せかけの流暢さ」という呼び名が付いていることも紹介されており、外から分かる乱れが無いまま、本人はコントロールを失う感覚を抱いている場合があるとしています。つまり、観察できるどもりの有無だけを物差しにすると、その人の吃音を取り違えます。
2025年のレビューも、吃音のある人は自分の発話がどもると予感し、話す前に発話の計画そのものを変える——言いよどんだり、ことばを差し替えたり、ときにはその場面をまるごと避けたりする、と述べています。作品の中では、こうした「起きなかったこと」は描かれません。
「歴史上の偉人が吃音を克服した」という話は本当ですか?
作品をきっかけに吃音を調べると、たいてい次に「この人も吃音だった」という人物の名前が並ぶページに行き着きます。そして多くの場合、その名前の並びは「吃音があっても偉くなれる」という一本の物語として組まれています。話すことを職業にしてきた当事者は、そういう場に呼ばれたとき、最初に何を言うかを語っています。
当事者本人の声(フリーアナウンサー・小倉智昭さん/ラジオ番組での発言の書き起こし)
よくね、吃音の人たちを相手にする講演を頼まれるんですよ。僕がいつも最初に言うのは「みなさん、吃音は治りませんよ」なんです。そうすると、みんなガッカリするんですよね。でも、「僕ぐらいには喋れるようになりますよ」って言ったら「そうなんだ」と目の色がキラキラと輝きだすんです。
直前でこの人は、今でも激昂したときや突然話を振られたときには吃音が出ること、電話は出そうになるから嫌いなことを語っています。そのうえで、講演の冒頭に置く一言と、それを聞いた会場の表情の変わり方を並べています。これは本人が自分の経験と実感として語っている言葉で、この記事が吃音の見通しを断定するものではありません。ただ、「克服して雄弁家になった人」という一枚の絵の代わりに、別の置き方があることは示されています。実は、その一枚の絵のほうには古くから名前が付いています。
出典: 小倉智昭 吃音に苦しんだ幼少期…それでも「アナウンサー」を志した理由とは?(TOKYO FM+/AuDee)(台帳: V0126)
金沢大学の研究室が運営する吃音の解説サイトは、吃音にまつわる困りごとを並べたページの末尾で、ひとつの用語を紹介しています。「デモストネス・コンプレックス」——古代ギリシャ時代に重度の吃音を克服して雄弁家として活躍したデモストネスにちなんで、吃音の人が「吃音を克服しないと、自分の人生に成功はない」「吃音さえなければ、すばらしい人生を送ることが出来るのに」と考えてしまう傾向を指したことばだ、と説明されています。この人名は日本語では「デモステネス」と書かれることも多いのですが、ここでは解説サイトの表記に合わせています。同じページには、この傾向に当たる思いとして「吃音がなければ、何でも出来るのにと思う」「吃音が治らないと、したいことは何もできないと感じる」が並べられています。偉人の名前を並べる物語は、励ましの形をしていながら、この古い型をそのまま再生産することがあります。
では、名前のほうはどこまで確かなのでしょうか。英国の吃音当事者団体がまとめている「影響を与えた吃音のある人々」の一覧は、この点に明示的な方針を置いています。ネット上に吃音があるという情報がたくさんあっても裏づけとなる出どころが見つからない人物については、名前の横に疑問符を付ける、と書いてあります。同じ一覧は、ウィンストン・チャーチルの項目にも疑問符を付け、実際に吃音があったのかどうかには議論があると断っています。上に出てきたデモステネス(デモストネス)についても、浜辺で口に小石を含み、波の音に負けじと叫ぶことで吃音を減らしたという話を、そう伝えられているという書き方で記しています。
面白いのは、同じ人物について資料どうしが食い違っていることです。2004年の生物学誌のレビューは、吃音のある有名人の例として、チャーチルは吃音を避けるためにすべての公の演説を完璧になるまで練習し、想定される質問や批判への答えまで用意しなければならなかったと、断定の形で書いています。一方の当事者団体は、同じ人物に疑問符を付けています。どちらが正しいかをこの記事が決めることはできません。確かなのは、「歴史上の偉人は吃音だった」という話の一つひとつに、確かさの度合いの違いがあるということです。作品や記事でその名前に出会ったときは、そこまで込みで受け取るのが実際に近いといえます。
作品で見た話し方を真似したら、どうなるんですか?
ここだけは、読者の側の行動の話になります。作品で印象に残った話し方を、面白がって口真似してしまう——その先で何が起きているかを、当事者の手記が記録しています。
当事者本人の声(筆名・はるさん/NPO法人日本吃音協会 SCW のメディア HAPPY FOX に寄せた手記)
その子の2つ年上の兄弟と遊んでいた時に「よく吃って話すよね」と突然言われました。
「吃る」という言葉を聞いたのは、その時が初めてでした。
私の話し方を真似している彼の姿を見て、その時に「これは吃ると言うのか。」と理解しました。
小学3年生ごろの記憶として書かれた場面です。それまでこの書き手は、自分の話し方に名前が付いていることを知らずにいました。名前を知ったのは説明されたからではなく、目の前で自分の話し方を真似されたからでした。手記はこのあと、その時から吃音はダメなもの、恥ずかしいものだと捉えはじめた、と続きます。真似をした側の一場面が、された側にとっては自分の話し方の意味が変わった日として残っている。学校で起きるこの種のできごとは、支援する側の資料でも正面から取り上げられています。
出典: 吃音を指摘されて話すことが怖くなった。吃音と共に生きる私がいま伝えたいこと(HAPPY FOX)(台帳: V0071)
国の発達障害情報のポータルに載っている解説(執筆は九州大学病院の医師)は、吃音のある子どもは発話の場面でしか症状が出ないため悩みが過小評価されやすいとしたうえで、他の子どもから話し方を真似されたり、笑われたり、「なんでそんな話し方なの?」と質問されたりすることが多いと書いています。そのため、周囲の大人が「真似されていない?」「笑われていない?」「話し方を質問されていない?」と本人にオープンに聞くことを提案しています。
ここで、真似をやめる理由を取り違えないでおきたいところがあります。学会の解説は、吃音のある人の話し方を真似すると吃音になる(伝染する)というのは俗説だと名指しし、それによって吃音のある子とは遊んではいけないという差別があった(今もあるかもしれない)と書いています。同じ節では、親の接し方が悪かったことを原因とする説を、最も問題のある間違った原因論として挙げています。英国の当事者団体も、親が吃音の原因になることはない、とはっきり書いています。真似をしないほうがよいのは「うつるから」ではなく、真似された側にとっての意味が上の手記のとおりだからです。
学会の解説は、周囲に伝えることとして、吃音は病気ではないこと、緊張やストレスや家庭環境のみから生じるものではないこと、本人がわざとやっているわけではないことを挙げ、指摘やからかいが減ることで、本人が安心して吃音を出しながら話し続けてよいのだと実感できるとしています。
気になったとき、どこに相談できるか
ここまでを読んで、自分や身近な子どものことが気になった場合の相談先を挙げておきます。学会の解説は、子どもについては、楽に話しやすくなるように周囲の接し方や場面のほうを整える方法や、直接発話に働きかける方法、吃音のことを理解する方法などを、年齢や状態に合わせて行うとしたうえで、小児を扱う言語聴覚士や、ことばの教室の教員に相談することを勧めています。
中高生以上・成人の場合は、本人が吃音の治療を希望するなら言語聴覚士による発話訓練を受けるという選択肢があるとし、発話訓練だけで症状が改善しない場合や吃音への不安が強い場合には、カウンセリングや心理療法が役立つこともあるとしています。また、吃音の自助団体に参加してほかの吃音のある人と出会うことが、吃音を否定的に捉えることが減るといった心理的な変化のきっかけになることもある、と述べています。学校や職場では、発表や電話応対の免除、試験等での面接時間の延長といった配慮を求めることができるとも書かれています。
目安として、次のようなときは様子を見るだけにせず、相談を考えてみてください(当てはまらなくても相談して構いません)。
- 学校や職場で、話し方を真似されたり笑われたりしていると本人が話している
- 本人が話しにくさを気にして、発表や電話など特定の場面を避け始めている
- ことばを出そうとして顔や体に力が入る様子が目立ってきた
この3つは相談を考えるきっかけとして挙げたもので、特定の資料が「受診の目安」として定めているものではありません。なお、周囲の大人が真似・笑い・質問の有無を本人に聞くことは、支援する側の資料が実際に提案しているものです。
作品で吃音を知ったあとに陥りがちな3つの落とし穴
落とし穴1 − 「詰まっていないから、吃音は出ていない」と考える
作品に映るのは詰まっている姿だけなので、「詰まっていない=出ていない」という等式ができあがります。しかし、流暢さを高める技法を使っているときは、聞き手には流暢に聞こえても本人はより大きな努力を払っていることがあり、外から分かる乱れが無いままコントロールを失う感覚を抱いている場合もあると論じられています。500人を超える成人への調査でも、約半数が少なくともときどき、聞き手に見えない回避や言い換えをしていたと紹介されています。「今日は出ていなかったね」という感想は、本人が払った労力を見落としている可能性があります。
落とし穴2 − 「落ち着いてさえいれば、作品のようにはならない」と読み替える
場面によって出方が変わるのは確かですが、それは「気持ちを落ち着ければ出ない」という意味にはなりません。叫び声やひとりごとのような自動的な発話では出にくい一方で、促されて自分の名前を言う場面は、きわめて自動的でありながら同時にきわめて意識的でもあるため、吃音らしい詰まりが最も多く引き出される部類だと説明されています。そもそも重さは日・週・月の単位でも揺れます。場面の話と、日々の波の話は別のものです。
落とし穴3 − 「克服した人」の物語を自分や誰かの物差しにする
吃音を克服しないと自分の人生に成功はない、と考えてしまう傾向には「デモストネス・コンプレックス」という名前が付いています。歴史上の人物の名前を並べる記事は、励ましのつもりでこの型を強めることがあります。しかもその名前の確かさには差があり、裏づけの見つからない人物には疑問符を付けると明記している一覧もあります。同じ解説サイトは、周囲の人の誤解として「ただ、うまく話せないだけ」と軽く捉えられること、吃音が治らないのは努力や練習が足りないからだと思われることを挙げています。
そのうえで、自分や家族の様子が気になるなら、どんな場面で出やすいか・どのくらいの期間続いているかを書き留めておくと、相談のときに役立ちます。日や週で波があるものなので、その日1回の印象より、記録のほうが実態に近づきます。記録から始めて、言語聴覚士やことばの教室に相談できる場合はそちらが確実です。
よくある質問
作品に出てくる吃音の描き方は、実際の吃音と同じですか?
連発・伸発・難発という中核の症状そのものは、学会の解説にも挙げられている実際のものです。ただし作品は伝わりやすさのために、それを「いつも見える形」で描きます。実際には同じ人の中でも重さが日・週・月の単位で揺れ、調子の良い状態・悪い状態が数週間から数か月続く「波」があり、自分だけに向けた発話ではどもらないと報告する大人が多いとも紹介されています。
歴史上の偉人が吃音だったという話は、どこまで本当ですか?
書き残されているものと、言い伝えとして語られてきたものが混在しています。英国の当事者団体の一覧は、裏づけとなる出どころが見つからない名前には疑問符を付けると明記し、デモステネスが小石を口に含んで克服したという逸話も「そう伝えられている」という書き方で記しています。同じ団体はチャーチルにも疑問符を付けていますが、2004年の論文のほうは同じ人物について断定の形で書いています。
吃音のある人の話し方を真似すると、うつりますか?
学会の解説は、真似すると吃音になる(伝染する)というのは俗説だと名指しし、それを理由に吃音のある子とは遊んではいけないという差別があったと書いています。ただし、真似されること自体は学校で実際に起きており、支援する側の資料は、周囲の大人が本人に「真似されていない?」とオープンに聞くことを提案しています。
落ち着いていれば、作品のようにどもらずに話せるのですか?
場面によって出方が変わるのは確かですが、「落ち着けば出ない」とは言えません。叫び声やひとりごとのように自動的な発話では出にくい一方、促されて自分の名前を言う場面は、きわめて自動的でありながら同時にきわめて意識的でもあるため、吃音らしい詰まりが最も多く引き出される部類だと説明されています。重さは日や週の単位でも揺れます。
流暢に話せているように見える人は、吃音が無くなったということですか?
見た目の流暢さは目安になりません。流暢さを高める技法を使っているとき、聞き手には流暢に聞こえても本人はより大きな努力を払っている場合があり、外から分かる乱れが無いままコントロールを失う感覚を抱いていることもあると論じられています。500人を超える成人への調査でも、約半数が少なくともときどき回避や言い換えをしていたと紹介されています。話す前に発話の計画そのものを変えている場合もあります。
まとめ
- 作品は吃音を「いつも同じように見える形」で描くが、実際は同じ人の中でも重さが日・週・月の単位で揺れ、数週間から数か月続く「波」があるとされる。
- 歌うとき・2人で声を合わせるとき・独り言のときは一時的に流暢になる人が多く、自分だけに向けた発話ではどもらないと報告する大人も多い。一方、促されて自分の名前を言う場面は最も出やすい部類とされる。
- 聞き手に見えない側がある。約半数が少なくともときどき回避や言い換えをしていたという調査が紹介されており、流暢に聞こえても本人はより大きな努力を払っている場合がある。
- 「歴史上の偉人は吃音を克服した」という物語には「デモストネス・コンプレックス」という古い名前が付いており、名前の確かさにも差がある。裏づけの見つからない人物には疑問符を付ける一覧もある。
- 真似をしないほうがよい理由は「うつるから」ではない。伝染するというのは俗説であり、真似・笑い・質問は学校で実際に起きているので、周囲が本人に聞くことが提案されている。気になるときは言語聴覚士やことばの教室に相談を。
