まず結論から
- その場で一時的になめらかに話せるようになる条件として、声をそろえて話すこと・読むこと、メトロノームに合わせること、外国語のなまりや役を演じること・演技のような身についていない話し方、ホワイトノイズ、そして歌が並べて挙げられています。決まった演目を演じる高座は、この並びの中にあります。
- 学会の解説も、状況によって症状が出やすかったり出にくくなったりすることを吃音の特徴として挙げ、歌うとき・2人で声を合わせるとき・独り言のときなどに一時的ですがなめらかになる人が多い、と書いています。
- 同じ文章を繰り返し読むうちにどもりが減る現象(研究では「適応効果」と呼ばれます)は、子どものころから始まる吃音のある人の70〜85%で起きると報告されています。同じ演目を繰り返す稽古と、この報告は同じ方向を向いています。
- 逆にいちばん出やすいのは、よく身についている(自動的な)はずなのに、きちんと言わなければという意識も強く働く発話で、その代表が「お名前を」と言われて自分の名前を言う場面だと説明されています。高座では言えて、楽屋の自己紹介で詰まるという食い違いは、この枠組みの中にあります。
- ただし、歌うと最も重い例でも吃音が劇的に消えることは報告されていても、なぜそうなるのかは未解決の問いのままで、総説は「話すときには出るのに歌うときには出ないのはなぜか」を三つの謎の一つに数えています。
ただし、これは「落語や講談をやれば吃音が軽くなる」という意味ではありません。ここに並ぶのは、条件がそろった場面で一時的に起きる変化として報告されているものであって、練習法としての効果が確かめられたものではありません。
高座に上がっている人が、いま実際にいる
まず、話を昔の名人の言い伝えから始めないでおきます。いま、吃音の啓発の場で高座に上がり、笑いを取っている人がいます。北海道・十勝の地方紙が、2026年春に帯広で開かれた吃音のイベントの最後の場面を伝えています。
地方紙が「幼少期に吃音で悩んだ」と紹介するアマチュア落語家・綴家段落さんの高座の場面(十勝毎日新聞電子版の取材記事。かぎ括弧の中が本人の言葉)
「会場の雰囲気が硬かったので、軟らかくするのに時間がかかった。じわじわと受けているなと感じた」と振り返る通り、会場はだんだんと和やかな空気に包まれ、笑いがどっと起きる場面もあった。綴家さんは、帯広支部が定期開催している吃音カフェでも落語の披露経験があるという。次の管内での高座は6月14日に開催予定の「第15回こてんこてん帯広寄席」。
この日の演目は「時そば」。記事によれば、本編に入る前の枕で、吃りの話や、生まれ育った街と帯広を比べた話をユーモアたっぷりに語ったといいます。会場は当事者と支援者が集まる啓発イベントで、直前まで3人の当事者が学校生活や就職での体験を発表していました。硬かった空気を軟らかくするのに時間がかかった、じわじわと受けている——本人が振り返っているのは、吃音のことではなく、その日の客席の温度です。そして記事は、次の高座の日取りを伝えて終わります。同じ記事によれば、学校での高座活動も控えているといいます。話芸の場に立つ当事者は、思い出話の中ではなく、来月の予定の中にいます。舞台のような場面で話し方がどう変わるのかは、学会の解説にも研究にも記述があります。
出典: 吃音って何? 研究者と当事者が語る吃音の今とリアル(十勝毎日新聞電子版)(台帳: V0404)
日本吃音・流暢性障害学会の解説は、吃音の特徴として、状況によって症状が出やすかったり出にくくなったりすることを挙げています。例として、歌を歌うとき、2人で声を合わせるとき、独り言を言うときなどに、一時的ですがなめらかに話せる人が多い、と書いています。同じ解説は、調子の良い状態や悪い状態が数週間から数か月にわたって続く人も多く、この変動を「波」と呼ぶ、とも書いています。
脳の回路を扱った総説は、この「出にくくなる場面」に名前を付けて整理しています。声をそろえて話す・読むこと、メトロノームに合わせて話すこと、外国語のなまり・役割演技・演技のような、いつもの自分の話し方から離れた発話、ホワイトノイズ、そして歌——これらを、その場でなめらかに話せるようになる条件として並べています。高座で演目を語ることは、このうち「役を演じること」に重なります。そして総説は、こうした条件で軽くなることは、問題が声帯や末梢の神経ではなく、話す動きを組み立てる水準で脳の側にあることを示唆する、と解釈しています。
決まった台詞に、節をつける
話芸の舞台には、日常会話には無いものが二つあります。台詞が決まっていることと、節や伴奏でリズムが決まっていることです。この二つを自分で見つけて、学芸会の舞台で試した記録が残っています。のちに総理大臣になる人が、新聞の連載で書いた少年時代の話です。
田中角栄の『私の履歴書』(日本経済新聞・1966年連載/「私の履歴書 第28集」1967年所収)からの引用を、香川言友会のサイトが紹介した箇所(地の文はサイトの書き手、かぎ括弧の中が本人の文章)
学芸会で「弁慶安宅の席」をやる際、先生から「舞台監督をやれ」と言われ、「絶対にドモらないから劇に出してくれ」と頼み込んだそうです。その結果、弁慶役をもらえました。
「当日、幕が開いた(略)ドモリの田中がどんな弁慶をやるのかと、満場水を打ったような静けさである(略)節をつけて歌うよう切り出すと、自分でも驚くほどスラスラと最初のせりふが出てきた」。二つ工夫をしたようです。「せりふに節をつけ、歌うようにしゃべった」「劇に伴奏音楽をつけて、進行がリズムに乗るようにした」。
同じ連載で本人は、寝言や歌を歌うとき、妹や目下の人と話すときはドモらず、目上の人と話すときにドモる、と自分の中の法則を書き残しています。その法則を持ったまま、舞台監督ではなく役をくれと頼み込み、当日は満場が静まり返る中で幕が開いた。ここで本人が取った手立ては二つとも、台詞の言い回しではなく台詞の運び方でした。節をつけて歌うように出すこと。伴奏音楽を入れて、進行そのものをリズムに乗せること。少年が舞台で試したこの二つは、研究が並べている条件の名前と、そのまま重なります。
出典: 吃音の本棚(香川言友会)(台帳: V0444)
総説が挙げた条件の一覧には、メトロノームに合わせること(リズム効果)と、歌うことが、別々の項目として並んでいます。節をつけて歌うように台詞を出し、伴奏で進行をリズムに乗せるという工夫は、この二つを同時に舞台の上でやっていることになります。メトロノームそのものの話は吃音とメトロノーム法の記事が正面から扱っているので、ここでは触れるにとどめます。
なぜ歌だと変わるのかについて、2024年の総説が手がかりを整理しています。まず現象として、歌うと、最も重い例でも吃音が劇的に消えると報告されていること。そして歌と話し声の違いとして、歌の旋律は固定されていないと旋律として認識されないのに対し、話し声の抑揚は伝えたい文脈によって変わる、という対比を挙げています。同じ歌詞なら歌うたびに同じ旋律をたどるが、話すときは上がり調子で高揚を、下がり調子で皮肉を、というように別の型を使える。リズムと音量の枠組みも、歌のほうは固定されている——そう説明しています。決まった演目に節をつけるということは、この「固定された側」に寄せるということです。
ただし総説自身が、なぜ歌では出ないのかをまだ解けていない問いとして挙げていることも、あわせて書いておきます。仕組みの説明はいくつも提案されていますが、決着はついていません。
間は、埋めるものではなく、使うもの
吃音のある人にとって、言葉が出ないまま空く時間は、たいてい消したいものです。ところが話芸の側から見ると、その時間には別の名前が付いています。大阪で長く続いている当事者の集まりの講座記録に、そのことを正面から扱った回があります。声の高さ・大きさ・速さをその場で試したあと、担当者が「間」の話を始めます。
日本吃音臨床研究会の伊藤伸二さんの発言(大阪吃音教室・2009年11月6日の講座記録。参加者が声の出し方を試す例会の一場面)
それと、間を僕たちは上手に活かしたい。「わたしはあなたが好き」の何を強調したいかで、間が変わる。この間を、自分でしゃべりやすいものにするといい。僕たちはどもるかどもらないかに注意を払ってきたので、間をあまり使ってこなかった気がする。表現には、間がものすごく大事です。僕は落語が好きで、よくホールに行くけれど、落語の命は間です。昔、間の名人と言われたのが、徳川夢声。ゆっくりでは、革新知事のシンボルだった東京都知事・美濃部亮吉さん。とてもゆっくり、「みんしゅしゅぎというものは」言われると、すごく説得力があった。べらべらと早口では、世の中が変わるなあという感じがしない。
この講座は、参加者が実際に声を出しながら進みます。とびきり高い声、とびきり低い声、大きな声、ひそひそ声——どれが自分には言いやすいかを試したあとに出てきたのが、この話でした。同じ記録の後半では、参加者から「リズムはどうでしょう」という問いが出ます。答えとして語られるのは、1965年に講談師が開いた講談教室に毎週通い、戦記物を早くぐいぐい言う稽古の中で、一音一音に母音をつけて押していくことを身につけた、という自身の経験です。落語、講談、謡曲、歌、何でもいいから生活の中に声を出すことを取り入れたい——記録はそう続きます。話芸が差し出しているのは、どもらない方法ではなく、声の出し方の選択肢のほうです。稽古という繰り返しについては、研究の側にも測られたものがあります。
出典: どもって声が出ないときの対処法 2(吃音と上手につきあうための吃音相談室・日本吃音臨床研究会)(台帳: V0137)
同じ文章を何度も読み返すうちにどもりが減っていくことは、古くから測られてきました。研究ではこれを「適応効果」と呼びます。2019年の研究は先行研究をまとめて、同じ材料を5回繰り返して読んだときにこの効果が出るのは、子どものころから始まる吃音のある人の70〜85%にのぼると書いています。一方、脳の損傷のあとに出た吃音では、同じ条件で減るのは約50%にとどまるとも書かれています。この数字は、その論文自身が測った結果ではなく、先行研究の要約として引かれているものです。
同じ演目を繰り返し稽古することと、この報告が測っているものは、同じではありません。実験で測られているのは数回の音読で、稽古は何か月にもわたります。それでも、繰り返した材料のほうが出にくくなるという向きは共通しています。ここから言えるのは、高座で語られる演目が、その人にとって何百回も通った道だということまでです。
「劇では吃らなかった」という記憶
舞台の話は、寄席や劇場だけのものではありません。多くの人にとって、最初の舞台は学校の学習発表会です。小学生のときに吃音が出はじめた人が、大人になってから書いた文章に、その日のことが残っています。
当事者本人の寄稿(NPO法人日本吃音協会 SCW が運営するメディアに、名義 Yuu さんが書いた小学生時代の回。大人になった今でも吃音があると本人が書いている)
4年生の時に、学習発表会で劇をしました。大きな声で吃らずセリフを言うことができて、楽しく参加できたことが印象に残っています。
練習でも吃らずにセリフを言えていて、その時はまさか大人になっても吃音で悩むとは思ってもいませんでした。
むしろ自分のセリフの番が回ってくるのが楽しみで、早く言いたくて仕方がありませんでした。
同じ文章の少し前には、国語の音読で自分の番が回ってきて「きききつねは」と続けて出てしまい、なぜ詰まるのかという疑問よりも先に恥ずかしさが溢れた、という場面が書かれています。読む文字は目の前にあり、順番も決まっている——音読と劇は、傍から見ればよく似た場面です。それでも本人の記憶では、片方は恥ずかしさとして、片方は出番が待ち遠しかった時間として残りました。書いているのは、大人になっても吃音で悩むことになる人です。同じ舞台の上でも、何が違うと出方が変わるのか。その食い違いを正面から論じた理論があります。
出典: 小学生の時に吃音があることに気がついた(HAPPY FOX・NPO法人日本吃音協会 SCW)(台帳: V0209)
2022年の理論論文は、場面によって話しやすさが変わる理由を、身についてひとりでに出る働き(自動の処理)と、意識して組み立てる働き(制御の処理)の釣り合いで説明しています。どちらかに極端に寄った発話は、かみ合わせのずれ(論文の言葉では認知的葛藤)が小さいので、なめらかに出る。とっさの叫び、独り言、あいさつのような決まり文句は自動の側に寄っていて、訓練で習う新しい話し方は制御の側に寄っている——どちらも出にくい側だ、というわけです。
いちばん出やすいのは、その逆です。高度に自動でありながら、高度な制御も同時に要る発話で、かみ合わせのずれが大きくなる。その代表として論文が挙げているのが、「お名前を」と言われて自分の名前を言う場面です。本来はよく覚えていて努力のいらない行為なのに、きちんと伝えなければという責任の重さから、制御の働きを使いすぎてしまう——そう説明されています。決まった台詞を決まった段取りで語る高座と、その直後の楽屋での自己紹介が、同じ人の中で違って見えるのは、この枠組みで言えば違う場所に置かれているからです。
どの言葉で出やすいかにも、古くからの観察があります。1930年代からの研究は、語の頭の音が子音であること、名詞・動詞・形容詞・副詞であること、語が長いこと、文の書き出しに近いことの四つを、どもりやすさに関わる条件として挙げてきました。2019年の研究がこの四つを切り分けて調べたところ、語が長いこと・語頭が子音であること・名詞や動詞などであることの三つは、どもった語のほうに偏って当てはまっていました。文の書き出しの三語でどもりやすいという通説のほうは、確かめられませんでした。演目の台詞は、言いにくい言葉を稽古で確かめておくことができます。自分の名前は、そうはいきません。
高座で出ないことと、吃音が無くなることは別
ここまでを、ひとまとめにしておきます。決まった演目、節をつけた台詞、伴奏やリズム、そして繰り返す稽古。これらはどれも、その場でなめらかに話せる条件として研究が並べているものの近くにあります。学会の解説が付けている「一時的ですが」という一言が、この記事でいちばん大切なところです。
英国の吃音支援団体がまとめた著名人の一覧には、演技で吃音が「治った」とよく報じられることについて、本人が「聞こえはいいけれど本当ではない。自分はこれからもずっと吃音のある人間だ」という趣旨で否定している俳優の例が載っています。同じ一覧には、自分以外の役を演じているときは吃音が消える、それがこの仕事を選んだ着想の一部だったかもしれない、と語る俳優も載っています。同じ一覧の中で、「演じると消える」と「治ってはいない」が並んで書かれているということです。舞台の上で起きることと、その人の吃音が無くなることは、別々に扱われています。俳優個人の話はブルース・ウィリスの吃音の記事が扱っています。
仕組みの説明も、まだ途中です。2024年の総説は、話すときには出るのに歌うときには出ないのはなぜか、伝える相手がいる場面では出るのに相手のいない発話では出ないのはなぜか、という問いを、解けていない三つの謎に数えています。歌については、歌うときには話すときと比べて喉と口の動きの時間の組み立てが変わり、母音が伸び、発声が安定することや、声の高さの調整に関わる脳の場所が限られていることまでは書かれていますが、それが答えとして確定しているわけではありません。
だからこそ、周りの受け取り方には注意が要ります。学会の解説は、思春期以降になると最初の音が出しにくくなる症状(難発)が中心になり、失敗の経験が重なると話し始める前から不安を感じて会話や社交を避けるようになること、言いにくい単語を言い換えて吃音を隠すと目立たなくなる代わりに、出ないかどうかを日々警戒しながら過ごすことになると書いています。高座で流暢に見える人が、日常の場面で困っていないとは限りません。
話芸に惹かれた人も、相談していい
「落語をやってみたい」と思うこと自体は、止める理由のない話です。ただ、それを吃音への対処の代わりにする必要もありません。相談先を置いておきます。
日本吃音・流暢性障害学会の解説は、子どもについては、小児を扱う言語聴覚士(ことばの専門職)や、ことばの教室の教員に相談しましょう、と書いています。本人が吃音の治療を希望する場合は、言語聴覚士による発話訓練を受けるという選択肢があり、発話訓練だけで症状が改善しない場合や吃音に対する不安が強い場合は、カウンセリングや心理療法が役立つこともある、としています。
同じ立場の人と会う場もあります。同じ解説は、吃音の自助団体に参加してほかの吃音のある人と出会うことが、吃音を否定的に捉えることが減るといった心理的な変化のきっかけになることもある、と書いています。この記事に出てきた高座も、大阪の講座も、そうした集まりの中で開かれたものでした。
学校や職場での困りごとには、制度の側の手当てもあります。学会の解説は、発表や電話応対の免除、試験等での面接時間の延長といった配慮——法律の言葉では「合理的配慮」といいます——を求めることができるとし、その際、医師の診断書や言語聴覚士の報告書の提出などが求められる場合があると書いています。中高生では部活動や入学面接、大学生ではゼミの発表や就職活動、社会人では職場の電話応対が、話しにくさを感じやすい場面として挙げられています。
次のようなときは、様子を見るだけにせず、相談を考えてみてください(当てはまらなくても相談して構いません)。
- 発表や劇では話せるために「困っていない」と受け取られ、普段の場面での困りごとを言い出せない
- 話し始める前から不安が強く、話す場面そのものを避けるようになってきた
- 言いにくい言葉を言い換え続けていて、出ないかどうかを日々警戒するのがつらい
この3つは相談を考えるきっかけとして挙げたもので、特定の資料が「受診の目安」として定めているものではありません。2つめと3つめは、学会の解説が書いている中高生以上・成人の経過にもとづいています。
「落語家にもいるのだから」で陥りがちな3つの落とし穴
落とし穴1 − 「落語をやれば吃音が軽くなる」と読む
研究が並べているのは、その場でなめらかに話せる条件であって、練習法の効果ではありません。学会の解説も、状況によって出方が変わること、そのときのなめらかさは一時的であることを、吃音の特徴として書いています。繰り返し読むと減るという報告にしても、測られているのは同じ材料を数回読んだときの変化です。話芸に惹かれて始めるのは構いませんが、それは治療の代わりではありません。治療を希望する場合の選択肢は、学会の解説に書かれています。
落とし穴2 − 「舞台で話せたのだから、普段も話せるはず」と言う
この一言は、当事者がいちばん受け取りたくない言葉のひとつです。理論の側から言えば、高座で語る決まった台詞と、その直後に求められる自己紹介は、自動の働きと制御の働きの釣り合いが違う場所に置かれています。名前を言う場面がとくに出やすいことまで、論文は名指しで書いています。学芸会で吃らずに台詞を言えた子が、翌日の音読で詰まるのも、同じ食い違いの中にあります。出方が場面で変わることは吃音の特徴であって、本人の努力の量を測る目盛りではありません。
落とし穴3 − 名前を並べて、裏づけを確かめない
「吃音だった落語家」の名前を集めたページはいくつもありますが、本人が語っているのか、そう言われているだけなのかが分けて書かれていないものもあります。英国の支援団体の一覧は、ネット上で吃音があるとされていても裏づけになる情報源が見つからない人物には名前の横に疑問符を付け、その理由を書き添えています。この記事が扱ったのも、本人の文章や取材記事として原文が残っている範囲だけです。名前の一覧をどう読むかは、吃音の有名人の記事にまとめてあります。人前で話すことを仕事にした当事者の語りは吃音症の芸人の記事にあります。
そのうえで、舞台に立つかどうかにかかわらず、記録は残しておくと役に立ちます。どの場面では楽だったか、どの場面で出やすかったかを書き留めておくと、相談のときに自分の状態を説明しやすくなります。相談できる場合は、言語聴覚士やことばの教室に相談するのが確実です。
よくある質問
吃音のある落語家は、実際にいるのですか?
この記事では、原文が残っている範囲だけを扱いました。地方紙の取材記事は、幼少期に吃音で悩んだアマチュア落語家が吃音の啓発イベントで「時そば」を演じ、吃音カフェや寄席でも高座に上がっていると伝えています。名前を並べたページは他にもありますが、本人が語っているのか伝聞なのかが分けて書かれていないものもあるため、この記事では裏づけのある範囲に限っています。
高座では、どうしてどもらないのですか?
その場でなめらかに話せるようになる条件として、声をそろえて読むこと、メトロノームに合わせること、外国語のなまりや役を演じることのような身についていない話し方、ホワイトノイズ、歌が挙げられています。決まった演目を演じることは、このうち「役を演じること」に重なります。ただし、なぜそうなるのかは決着しておらず、「話すときには出るのに歌うときには出ないのはなぜか」は未解決の謎の一つに数えられています。
落語や講談を習えば、吃音は良くなりますか?
そう言える根拠は、この記事で扱った資料の中にはありません。研究が整理しているのは、条件がそろった場面で一時的に起きる変化であって、練習法としての効果ではありません。学会の解説も、状況による変化は一時的だと書いています。治療を希望する場合は、言語聴覚士による発話訓練という選択肢があり、不安が強い場合はカウンセリングや心理療法が役立つこともあるとされています。
舞台では話せるのに、普段の会話で出るのはなぜですか?
身についてひとりでに出る働きと、意識して組み立てる働きのどちらかに極端に寄った発話は、かみ合わせのずれが小さいのでなめらかに出る、という説明があります。逆に、高度に自動でありながら高度な制御も要る発話でいちばん出やすく、その代表として「お名前を」と言われて自分の名前を言う場面が挙げられています。決まった台詞と、その直後の自己紹介は、この枠組みでは違う場所にあります。
子どもが学芸会の劇では吃らずに話せました。治ってきたのでしょうか?
その場面だけからは判断できません。状況によって症状が出やすかったり出にくくなったりすることは吃音の特徴として挙げられていて、調子の良い状態や悪い状態が数週間から数か月続く「波」もあるとされています。劇では話せた記憶と、大人になっても吃音で悩んだ経過が同じ人の文章に並んでいる例も、この記事で紹介しました。気になるときは、小児を扱う言語聴覚士やことばの教室に相談するのが確実です。
まとめ
- 高座に上がっている当事者は、昔の言い伝えの中だけでなく、いまの寄席や吃音カフェの予定の中にいる。舞台での話し方の変化は、学会の解説と研究の両方に記述がある。
- 声をそろえること・メトロノーム・役を演じること・ホワイトノイズ・歌が、その場でなめらかに話せる条件として並べられている。決まった演目に節をつけ、伴奏でリズムに乗せるという工夫は、この並びの中にある。
- 同じ材料を繰り返し読むと減る「適応効果」は、子どものころから始まる吃音のある人の70〜85%で起きると報告されている。どの語で出やすいかにも、語の長さ・語頭が子音・名詞や動詞といった偏りがある。
- いちばん出やすいのは、自動の働きと制御の働きが同時に強く要る発話で、その代表が自分の名前を言う場面。高座で言えて楽屋の自己紹介で詰まるのは、この枠組みの中にある。
- ただし、なめらかさは一時的で、「演じると消える」と「治ってはいない」は同じ一覧の中に並んでいる。歌うと消える理由もまだ解けていない。相談先は言語聴覚士・ことばの教室・自助団体。