まず結論から
- 手元の資料で確かめられるのは、萩原利久さんが吃音症のある役を演じたということまでです。2021年放送のドラマ『美しい彼』の番組紹介は、主人公の高校3年生・平良一成について「思うように言葉を発せない『吃音症』を持ち」と書き、その役を萩原利久さんが演じると記しています。
- 同じページには本人へのインタビューが載っていますが、本人の発言部分に「吃音」という言葉は出てきません。本人が語っているのは、初めてのジャンルで挑戦だと思ったこと、演じたことがない役をどのように演じるか緊張し、考えたりもしたことなどです。この記事は、萩原利久さん本人に吃音があるともないとも判定しません。
- 作品を見た吃音のある人からは、「吃音」という言葉が作中で一度も出てこないという指摘が出ています(V0549)。名前が付かないまま話し方だけが描かれると、事情を知らない人には別のものに見えることがあります。
- 吃音は、緊張しているから起きるものではありません。英国の当事者団体が出している指針は、吃音は弱さでも欠陥でもないこと、呼吸のしかたが悪いなど本人が何か間違ったことをしているから起きるのではなく神経学的なものであること、緊張しているから吃るのではないことを「事実」として並べています。総説も、子どもの時期に始まる神経発達の障害と定義しています。
- 同じ指針は、テレビ・ラジオ・映画で吃音のある声が聞こえるようにしてほしいと求めています。ただし誰かが吃音を「克服した」「打ち負かされた」「治した」という文脈でではなく、あらゆる内容を作り上げているアクセントと声の豊かな模様の一部として、という条件つきです。
ただし、この記事が使えるのは公開されているインタビュー記事1本に書かれている範囲だけで、俳優本人の健康状態について何かを述べる材料は持っていません。作中の人物についても、番組紹介に書かれている以上の診断や重症度の判定はしません。
「吃音」という言葉が出てこないまま、話し方だけが描かれるとき
まず、資料に何が書かれているかを確かめます。インタビューページの番組紹介の欄は、原作の小説を実写化した作品として、思うように言葉を発せない「吃音症」を持ち、幼い頃から周囲に馴染めない高校3年の平良一成と、学校のカースト頂点に君臨する同級生の清居奏という、対極な2人を描くと書いています。あらすじの欄も、言いたい言葉がはっきり伝えられない「吃音症」に悩んでいた高校3年生として同じ人物を紹介しています。つまり、「吃音症」という語は番組の紹介文とあらすじに出てくるわけです。一方、この作品を最後まで見た吃音のある人は、作品そのものについて別のことを書いていました。
吃音(発話障害)のある当事者でVブロガーの「吃音コン(キツネこん)」さん本人の投稿(note。プロフィールに「吃音(発話障害)を患っていて、上手にお話が出来ません」と記載。2022年7月投稿)
でも、「吃音」という言葉は1度も出てこず、吃音という病気を知らない人が見たら、ただ「おどおどして喋りが苦手なあがり症の人」という感じです。演じる役者さんは、吃音症者ではないので、どうしてもコンはドモリの演技に「吃音ってそうじゃないんだよな…」という感情は持ってしましました。
この人は、普段ほとんどドラマを見ないと前置きしたうえで、主人公の1人が吃音だと知って見ることにした、と書いています。見た感想として最初に置かれているのは「吃音の事は、わりと置いてけぼりダネ。でも、ドラマとして面白い!」という二つの評価でした。文句ばかりでは申し訳ないとして良いところを挙げ、「吃音ドラマ」としてではなく作品として見れば面白くてよくできていた、とも書いています。それでも最後に、もう一度戻ってくるのです。吃音の扱いは小さい、当事者として言っておかないと、と。作品の出来と、自分の話し方がどう映ったかは、別の話として並んでいます。ここで書かれている「吃音という病気を知らない人が見たら」という前提は、指針の側も同じ心配のしかたをしています。
出典: 【吃音&BL】ドラマ:美しい彼【映画化】(note)(台帳: V0549)
英国の当事者団体STAMMAが出しているメディア向けの指針は、冒頭でこう書いています。長いあいだ、吃音は性格の欠陥や身体的な不足を表すため、また笑いを取るために使われてきた、と。そして、そうした型にはめた描き方は現実の帰結を生むとし、流暢に話す人より弱く能力が低いと誤って受け取られ、話し方に否定的で不適切な反応を向けられる、と続けます。指針はこれに「事実」の束で答えています。吃音は弱さでも欠陥でもないこと。本人が呼吸のしかたを間違えているなど何か悪いことをしているから起きるのではなく、神経学的なものであること。緊張しているから吃るのではなく、もし緊張しているように見えるとしたら、それは話し方を繰り返し笑われてきたからだろう、ということ。「おどおどして喋りが苦手なあがり症の人」という見え方は、指針が名指しで訂正している側の見え方です。創作の中の吃音をどう読むかはアニメ・漫画の吃音の記事でも扱っています。
「緊張してどもる」と、同じ言葉で呼ばれること
名前が付かないまま話し方だけが描かれると、見た人はすでに知っている言葉に当てはめて理解します。多くの場合、それは「緊張」や「あがり症」です。この置き換えが当事者に何をしているのかを、正面から書いている人がいます。中学生から22歳ごろがいちばん重かったと自ら書いている、難発——最初の音が出てこない状態のこと——のある人の投稿です。
吃音のある当事者本人(note・筆名「砂張 五(すなばり いつつ)」。一人称「俺」。会社勤めの経験を記した長文のエッセイ)
言葉が出ない俺たちに対して、周囲の人間は「落ち着いて」だの「緊張しないで」だのという言葉を投げかけてくるが、それで言葉が出てくるなら誰も苦労はしないし、そのコミュニケーションを存在させてしまうこと自体が苦しいのだ。吃音症という発話障害を抱えていない人の、心理状態によって起きる「吃り」と、吃音症によって引き起こされている「吃り」は全く別のものであって、それらが同じ「吃る」というワードで表現されていることが本来おかしい。もしもこの日本語表現が分けられていたら、俺たちの傷はもう少し浅かったはずだろう。
この人は同じ投稿の中で、吃音の苦しさの中心がどこにあるかも書いています。症状としての発話が完遂されない不便さよりも、生活の中での他人からの視線や嘲笑、うまくいかないやりとりのほうだ、と。その前段には、吃音は最初の文字を繰り返してしまう「連発型」と、最初の文字が出てこない「難発型」「延発型」があり、複合することも多いこと、どれも言葉が出てこない時間はかなり息苦しいことが書かれています。そして、症状の存在や内容を知る人は時代とともに少しずつ増えてきたが、当事者以外の理解が全く及ばない現状は今も続いている、と。言葉が二つに分かれていないこと自体が、その「理解が及ばない」の中身の一つとして挙げられています。この区別は、研究の側では最初の定義に置かれています。
出典: 吃音の苦しみを壊した話(note)(台帳: V0066)
総説は、吃音を子どもの時期に始まる神経発達の障害と定義しています。外から見えるのは発話が意図せずとぎれることですが、話し手自身はそれを「コントロールを失う」体験として味わい、しばしば力み(もがき)や、それを避けるための代わりのふるまいを伴う、と書かれています。症状の重さの個人差は大きく、社会的・感情的な文脈によって変動し、生涯にわたって職場や心理面に不利をもたらしうるとも述べています。同じ総説は、生涯のうちに吃音を経験する人の割合は高く治療への需要も強いのに、生物学的な理解は限られたままで、現行の治療の結果はまちまちであり、子どもにも大人にも治療法を評価する無作為化比較試験——参加者をくじ引きのように振り分けて効果を比べる研究のことです——がほとんど行われていない、と明言しています。「落ち着けば出る」のであれば、ここまでの研究の課題は存在しません。指針も、吃音は方略を学んで管理したり和らげたりはできても、治すものではない、と書いています。
画面の外では、黙っている時間のほうが長い
作品の中で吃音が描かれるのは、たいてい言葉が出ない場面です。けれど当事者が日々していることの多くは、その手前で起きています。自身も吃音があり、吃音のある少年を主人公にした小説がテレビドラマになった作家が、そのドラマ化に際してのインタビューで、聞き手の側に向けてこう言っています。
作家・重松清さん本人(慶應塾生新聞デジタルの実名インタビュー。自身も吃音当事者で、吃音とともに生きる主人公を描いた『きよしこ』がNHKでドラマ化された際の取材)
いつも無口でニコニコしている人が、本当は話したいけれど言葉に詰まってしまうから、仕方なく黙っているのかもしれない。ぶっきらぼうに話していると思える人も、話しやすい言葉を選んでいたら、そう聞こえてしまうだけかもしれない。このように想像してみてほしい。
このインタビューで、重松さんは吃音の一番の難しさは話してみなければ分からないところだ、と述べています。100人に1人が吃音だとしたうえで、高校で3クラスあれば1人いたはずだし、大学の大教室にも1人はいるはずだと、身の回りに置き換える言い方をしています。さらに、白杖や車いすのように分かりやすいサインがないため、黙っていたら分からない、とも。作品については、さまざまな立場の大人が登場して主人公の心が揺れ動くこと、小説の中で「これはこうだ」と決めつけて正解を出すことはしなかったことを語っています。画面に映る数十秒よりも、映らない時間のほうが長い——聞き手に求められているのは、その時間を想像することのほうでした。この「黙る」「言い換える」は、研究の側でも測られています。
出典: 重松清さんインタビュー 沈黙から想像する思い~100人に1人の吃音と向き合う~(慶應塾生新聞デジタル)(台帳: V0023)
総説には、吃音の社会的な側面を扱った節があります。吃音のある多くの大人が、自分だけに向けた発話——ひとりごと——ではどもらないと報告している、と書かれています。これは、実在するかどうかによらず「聞き手がいる」という認識が、吃音が起きるために必要であることを示唆している、というのが総説の読み方です。さらに当事者は、このまま話せばどもると事前に感じ取ることを学習します。総説はこれを予期——言う前から「ここで詰まる」と分かってしまうことです——と呼び、学齢期以上のほとんどすべての当事者が程度の差はあれ自分の吃音を予期しているとしています。そして予期に反応して、話す前の段階で計画を変える、と続きます。言いよどんで時間を稼ぐ、別の語に言い換える、ときにはどもると分かっているから話さないことを選ぶ、という形で。「無口な人」「ぶっきらぼうな人」に見えている時間の中身は、ここに書かれているものと重なります。
吃音のある役を、当事者でない俳優が演じるとき
ここで、この記事の入口に戻ります。インタビューページで萩原利久さんが語っているのは、役作りと現場についてでした。出演が決まったときは初めてのジャンルなのでそこが自分の中での挑戦だと思ったこと、演じたことがない役をどのように演じるか緊張しますし、考えたりもすること、楽しみと緊張とチャレンジが瞬間的にいろいろな感情として出てきたこと。脚本については、モノローグがあるので小説のようだった、発している言葉と思っている言葉が主人公は相反している場合が多くて新鮮で面白かった、と述べています。監督と話したときにモノローグの部分は丁寧に描いていきたいと言われたので、人に対して発する言葉と内面で思っている言葉の違いを使って主人公の真っすぐさを表現したいと台本を読んで感じた、とも語っています。発言部分に「吃音」という語はありません。役作りの話として語られているのは、口に出す言葉と心の中の言葉が食い違うという、この作品の構造についてです。
では、吃音のある役を当事者でない人が演じることについて、当事者の側は何を言っているのでしょうか。先ほどの指針が、そのままの形で要望を出しています。テレビ・ラジオ・映画で、吃音のある声が聞こえるようにしてほしい、と。ただし条件が付いています。誰かが吃音を「克服した」「打ち負かされた」「治した」という文脈でではなく、あらゆる内容を作り上げているアクセントと声の豊かな模様の一部として、という条件です。指針は同時に、吃音や吃るという語を、失敗や出来の悪さの言い換えとして使うのをやめてほしいとも求めています。そして、メディアで働いていて吃音をめぐる番組を企画しているなら、この指針を関係者と共有してほしい、と呼びかけています。この指針は英国王立言語聴覚士会の承認を受けており、吃音のある人を代表してきた40年を超える経験にもとづくものだと、ページ自身が書いています。最終更新は2024年1月です。
言葉の選び方についても、具体的な置き換えが並んでいます。吃音に「苦しんでいる」「冒されている」と言う代わりに「その人は吃る」と書くこと。誰かの吃音を「ひどい」「衰弱させる」と形容せず、同じく「その人は吃る」と書くこと。人が吃音を「打ち負かす」「克服する」という言い方を避けること——治せるものではないから、というのが理由です。物事が滞ったり失敗したりする様子を表すのに吃るという語を使わないこと。誰かの吃音を「今日は調子が悪い」と評さないこと、その人はただ話しているだけだから、ということ。作品の紹介文や感想を書くときに、そのまま使える形の規則です。当事者が台本づくりに関わった例や、番組を作る側に回った当事者の話は吃音とテレビの記事にまとめてあります。
作品が入口になること自体を、否定する材料は手元にありません。日本語の医学雑誌には、吃音があったとされる英国王と、その治療にあたったオーストラリア出身の言語療法士との交友を描いた2010年の映画を題材に、発話と、障害としての吃音を神経科学の視点から検討した解説が載っています。書いたのは東北大学大学院医学系研究科の研究者です。作品を入口にして、話し方の癖としてではなく発話という行為の仕組みの側から吃音を見る——そういう道筋が、専門誌の側にも用意されているということです。映画の中の吃音の描かれ方と実際の違いは映画『IT』のビルと吃音、俳優本人が吃音を公表している場合の読み方はエミリー・ブラントの吃音の記事で扱っています。
作品を見て気になったとき、相談できる場所
「自分の話し方も、もしかしてこれなのかもしれない」。作品をきっかけにそう思った方のために、相談先を置いておきます。日本吃音・流暢性障害学会の解説は、楽に話しやすくなるために周囲のコミュニケーション環境を整える方法(環境調整)や、直接発話に働きかける方法、吃音のことを理解する方法など、年齢や状態に合わせた指導が行われるとしたうえで、小児を扱う言語聴覚士(ことばの専門職)や、ことばの教室の教員に相談しましょうと書いています。
大人の場合は、制度の側の後ろ盾もあります。同じ解説は、2016年に施行された障害者差別解消法により、学校や職場での吃音に対する差別的言動および差別的扱いは禁止されており、発表や電話応対の免除、試験等での面接時間の延長などの合理的配慮——本人の困りごとに合わせて、周りがやり方のほうを変えることです——を求めることができる、と書いています。その際、医師の診断書や言語聴覚士の報告書の提出などが求められる場合があるとも書かれています。
同じ立場の人と会う場もあります。解説は、吃音の自助団体に参加してほかの吃音のある人と出会うことが、吃音を否定的に捉えることが減るといった心理的な変化のきっかけになることもあるとし、日本には、当事者が「吃音があるのは自分だけではない」ということを認識し、共通の体験を語り合い、苦悩を分かち合い、互いに援助し合うことを活動の中心とする自助団体がいくつもあると説明しています。1965年に発足した「言友会」が日本で最も歴史が古く、近年は若者を対象とした団体や、女性の集いを開催する団体も設立されている、と具体名を挙げています。
次のようなときは、様子を見るだけにせず、相談を考えてみてください(当てはまらなくても相談して構いません)。
- 言いたい言葉が出てこない状態が続き、話す場面そのものを避けるようになっている
- 話し方のことで職場や学校に事情を伝えたいが、どう言えばいいか決められないまま時間が過ぎている
- 話し方をからかわれたり真似されたりした経験があり、それ以来、人と話すことが苦しい
この3つは相談を考えるきっかけとして挙げたもので、特定の資料が「受診の目安」として定めているものではありません。3つめは、吃音の症状をからかわれるなどのいやな経験が心理的な問題につながることもあるという学会の解説にもとづいています。
俳優と役をめぐって陥りがちな3つの落とし穴
落とし穴1 − 演じた人に、役の設定を移してしまう
番組紹介とあらすじが「吃音症」と書いているのは、萩原利久さんが演じた作中の人物についてです。同じページのインタビューで本人が語っているのは役作りと現場のことで、発言部分に「吃音」という語は出てきません。役の設定を演じた人の属性として書き換えると、本人が公表していないことを本人の話として広めることになります。人物の吃音について何かを伝えるときは、その一行が本人の言葉なのか、番組の紹介文なのか、誰かの要約なのかを分けて書くほうが安全です。
落とし穴2 − 画面の話し方を「あがり症」に読み替える
作中で名前が付かないまま話し方だけが描かれると、事情を知らない人には「おどおどして喋りが苦手なあがり症の人」に見えることがあります(V0549)。けれど指針は、吃音は弱さでも欠陥でもなく神経学的なものであること、緊張しているから吃るのではないことを「事実」として置き、緊張しているように見えるとしたらそれは話し方を繰り返し笑われてきたからだろう、と書いています。心理状態で起きる詰まりと吃音症が同じ言葉で呼ばれること自体がおかしい、と当事者も書いています(V0066)。読み替えは、当事者にとっては訂正の手間が一つ増えることを意味します。
落とし穴3 − 「作品に出たから理解が進む」と早合点する
作品に登場すること自体は、指針も求めていることです。ただし指針が求めているのは、誰かが吃音を「克服した」「打ち負かした」「治した」という文脈でではなく、あらゆる内容を作り上げている声の豊かな模様の一部として聞こえること、という条件つきの登場です。実際、作品を見た当事者からは「吃音の扱いは小さい」という感想が出ています(V0549)。描かれたかどうかではなく、どう描かれたかのほうが問われます。番組を企画する側に向けては、この指針を関係者と共有してほしいという呼びかけが出ています。
そのうえで、作品をきっかけに自分の話し方が気になった方は、どの場面で出やすかったか・どの場面では楽だったかを短く書き留めておくと役に立ちます。相談のときに状態を説明しやすくなり、職場や学校に配慮をお願いするときの材料にもなります。
よくある質問
萩原利久さん本人に吃音症があるのですか?
この記事が使った資料には、本人が自分の吃音について語った記述はありません。確かめられるのは、2021年放送のドラマ『美しい彼』で、番組紹介が「吃音症」を持つと書いている高校3年生の役を演じた、というところまでです。同じページのインタビューで本人が語っているのは、初めてのジャンルへの挑戦だと思ったことや、モノローグの多い脚本の印象などで、発言部分に「吃音」という語は出てきません。この記事は、本人に吃音があるともないとも判定しません。
ドラマ『美しい彼』は、吃音をきちんと描いていますか?
評価は分かれます。番組紹介とあらすじは主人公について「吃音症」と明記しています。一方、吃音のある人が書いた感想には、作中で「吃音」という言葉が1度も出てこず、知らない人が見たら「あがり症の人」という感じになる、演技には「吃音ってそうじゃないんだよな」という気持ちを持った、と書かれています(V0549)。同じ人は、作品としては面白くてよくできていたとも書いています(V0549)。
吃音と、緊張して言葉が詰まることは違うのですか?
違うものとして扱われています。英国の当事者団体の指針は、吃音は弱さでも欠陥でもなく、本人が呼吸のしかたを間違えているなど何か悪いことをしているから起きるのでもなく、神経学的なものだと書いています。緊張しているから吃るのではなく、緊張しているように見えるとすれば、それは話し方を繰り返し笑われてきたからだろう、とも。総説も、吃音を子どもの時期に始まる神経発達の障害と定義し、話し手自身が「コントロールを失う」体験として味わうものだとしています。
作品で吃音を描くとき、気をつけることはありますか?
当事者団体が指針を公開しています。吃音のある声がテレビ・ラジオ・映画で聞こえるようにしてほしいこと、ただし「克服した」「治した」という文脈ではなく声の多様さの一部としてであること。吃音や吃るという語を失敗や出来の悪さの言い換えに使わないこと。「苦しんでいる」「克服する」ではなく「その人は吃る」と書くこと。この指針は英国王立言語聴覚士会の承認を受けており、番組を企画する人は関係者と共有してほしい、と書かれています。
作品を見て自分も当てはまるかもしれないと思ったら、どこに相談すればいいですか?
日本吃音・流暢性障害学会の解説は、小児を扱う言語聴覚士(ことばの専門職)や、ことばの教室の教員に相談しましょうと書いています。年齢や状態に合わせて、周囲の環境を整える方法や、直接発話に働きかける方法などの指導が行われるとされています。大人の場合、学校や職場での差別的な扱いは障害者差別解消法で禁止されており、発表や電話応対の免除といった配慮を求めることができるとも書かれています。同じ立場の人と出会える自助団体もあります。
まとめ
- 手元の資料で確かめられるのは、萩原利久さんがドラマ『美しい彼』で、番組紹介が「吃音症」を持つと書いている役を演じたということまで。同じページのインタビューの発言部分に「吃音」という語は出てこない。
- 作品を見た当事者からは、作中で「吃音」という言葉が1度も出てこないため、知らない人には「あがり症の人」に見える、という指摘が出ている(V0549)。
- 吃音は緊張のせいで起きるものではない。指針は、弱さでも欠陥でもなく神経学的なものだと書き、緊張しているように見えるのは話し方を繰り返し笑われてきたからだろうとしている。総説は、子どもの時期に始まる神経発達の障害と定義している。
- 画面に映らない時間のほうが長い。総説は、学齢期以上のほとんどすべての当事者が自分の吃音を予期し、言いよどむ・言い換える・話さないことを選ぶという形で話す前の計画を変えていると書いている。
- 当事者団体は、吃音のある声が作品の中で聞こえることを求めている。ただし「克服した」「治した」という文脈ではなく、声の多様さの一部として、という条件つき。相談先は言語聴覚士・ことばの教室・自助団体。