まず結論から
- ゲームのキャラクターの話し方は、作り手が選んだ演出です。作中の人物に現実の診断名を当てることはできません。実在の吃音は、音を繰り返す・音を引き伸ばす・最初の音がなかなか出ない、という3つの出方が主だと説明されています。
- 吃音は、長いあいだ性格の欠陥や身体的な不足を表すため、また笑いを取るために使われてきた、と当事者団体は書いています。そのうえで、そうした型にはめた描き方は現実の帰結を生む、と続けています。
- 話し方を真似されることは、実際に起きています。学校では、他の子から話し方を真似されたり、笑われたり、「なんでそんな話し方なの?」と質問されることが多い、と公的なポータルの解説は書いています。
- 笑うこと自体が禁じられているわけではありません。自助の場の進行役は、さげすみやからかいの笑いと、共感や励ましの笑いを分けて語っています(台帳: V0115)。
- 相手が吃ったときの応じ方は、指針の形で公開されています。さえぎらずに話し終えるまで待つこと、吃ったときに冗談にしたり憐れんだりしないことが並んでいます。
ただし、この記事は特定のゲーム作品やその登場人物について、話し方が吃音かどうかを判定しません。版元が公にしている一次の資料を手元に持っていないため、作品のせりふ・設定・場面には踏み込まず、「現実の人について報告されていること」だけを並べます。
その話し方を真似したとき、どこに届くのか
キャラクターの口調を真似するのは、ふつうは作品への愛着の表れです。問題は、その真似が画面の前から離れて、目の前にいる誰かの話し方に重なった瞬間に、受け取られ方がまったく変わることです。真似される側に何が起きているかは、当事者本人の記録に残っています。
当事者本人の声(名義 びじゅさん・吃音のある本人が高校時代を振り返って書いた個人ブログ note の記事)
代わりに出現したのが、この「イジり」である。
「笑わなくては」と思えば思うほど、涙が溢れそうになった。
笑ってやり過ごしたつもりでも、数日間は必ず引きずった。確実に傷付いている証拠である。
その時の私は結局どうすることにしたかというと、その子に対し「吃ること」をカミングアウトし、イジらないでほしい旨を伝えた。
親以外に初めて伝えた瞬間であった。
この人が書いているのは、部活で発語のときの動作を真似された出来事です。中学までの露骨なあつかいは無くなり、高校では「気が付いていても指摘しない」年代になったはずだった——そこへ入ってきたのが、この真似でした。書き手はそれを「いじめ」ではなく「イジり」と呼び分けています。場は笑っているので、笑い返すのが正解になる。その場は流せても数日は引きずる、と本人は書いています。そして選んだのが、相手に吃音であることを伝えてやめてほしいと頼むことでした。親以外に初めて伝えた、という一行が、その言葉の重さを示しています。真似する側からは一瞬の場つなぎでも、受け取る側には数日分の時間が流れている——この非対称は、ゲームの口調を真似する場面でもそのまま起こりえます。相手が吃ったときに冗談にしないことは、当事者団体の指針にも挙げられています。
出典: 吃音と歩んだ半生(note)(台帳: V0102)
これは特別な出来事ではありません。九州大学病院の医師が文責を持つ公的なポータルの解説は、吃音のある子どもは発話場面でしか症状が出ないため悩みが過小評価されることが多いとしたうえで、他の子どもから話し方を真似されたり、笑われたり、「なんでそんな話し方なの?」と質問されることが多い、と書いています。だからこそ担任・養育者・支援者は、本人に「真似されていない?」「笑われていない?」「話し方を質問されていない?」とオープンに聞くことを勧められています。毎年クラス替えがあり、真似・笑い・質問を受ける可能性があるため、早期に気づいて対応を話し合うことが予防につながる、というのがその理由です。
受ける側に回りやすい理由も、研究の側から説明されています。2002年の研究は、吃音のある子どもは自分についての根強い否定的な決めつけと向き合わなければならない、と述べ、話し言葉の障害を扱う専門家でさえ吃音のある子どもを言い表すときに望ましくない特徴を挙げていたという古い調査を引いています。そのうえで、からかいや嘲り、排除は学校や運動場という厳しい環境でいちばん目につく、という先行研究の指摘も紹介しています。学校で起きるからかいやいじめへの具体的な対処は、吃音症といじめの記事にまとめてあります。
本人がいない場所の笑いも、見られている
配信やゲームのやりとりで誰かの話し方を笑うとき、その場に当事者はいない、と思っているかもしれません。けれど「その場にいない人の吃音が笑われる場面」は、別の当事者にとって自分の将来の扱われ方を確認する場面になります。教室でそれを目撃した人の記録があります。
当事者本人の声(吃音のある本人が学齢期を振り返って書いた個人ブログ note の連載。同じクラスにもう一人吃音のある同級生がいた時期の回)
この機会は、A君本人がいないところでA君の吃りに対して、他人がどのようなリアクションをするのかを確認できるチャンスであった。吃音をもつ自分も実際のところどう思われているのかを確かめられる、そう思った。
結果として映像が流れた時、A君の吃りは少なくとも女子3人にかなりバカにされたように笑われていた。この3人が誰だかは今でも覚えている。A君が笑われたとき、まるで自分がバカにされたかのようにものすごく辛かった。
「やっぱり自分も吃った時こう思われているのだな」と。
合唱コンクールの映像を教室で鑑賞した場面です。書き手は、その映像を自分の話し方がどう思われているかを確かめる機会として見ていました。笑ったのは3人、笑われたのは本人がいない画面の中の同級生。それでも書き手は、自分が笑われたのと同じだけ辛かったと書き、笑った3人が誰だったかを今も覚えていると書いています。同じ記事で、この人は勉強も運動もでき、ノリもよかったため、自分の吃音を直接指摘されたり笑われたりすることはそれまでほとんど無かったとも振り返っています。直接向けられていない笑いでも、同じ話し方をする人には届く——画面の向こうの話し方をネタにする場面で、いちばん見落とされやすいのがここです。
出典: 吃音と私(note)(台帳: V0207)
笑いを見た側が、その後どうふるまうのかも研究で扱われています。先ほどの2002年の研究は、教室ごとの集計から、吃音のある子どもはそのクラスで多数を占める立場に自分を寄せているように見える、と述べています。研究者はその理由として、受け入れられたいから、あるいは目立たずにいて自分の吃音が招きうるいじめやからかいを避けたいからではないか、という解釈を挙げています。目立たないように場の色に合わせるという行動は、外からは「うまくやっている」ようにしか見えません。
同じ研究は、社会的に受け入れられている場合でも、吃音のある子どもは同級生からリーダーや自己主張の強い子とは見られていなかった、とも報告しています。自己主張が強いと指名された割合は吃音のある子とない子で似ていたのに、それが受け入れられ方に結びついていませんでした。研究者はその背景として、メディアやスポーツの世界に、吃音のある子どもが自分と重ねられるリーダー役の有名人がほとんどいないことを挙げています。画面に出てくる吃音が笑いの役どころに偏るほど、この「重ねられる手本がいない」状態が続くということでもあります。
「笑っていいのか」が分からなくなったとき
ここまで読んで、「では一切笑ってはいけないのか」と身構えた人もいるはずです。その戸惑いは、当事者の家族も同じように経験しています。吃音のある子どもと親が集まる場での話し合いに、その迷いがそのまま記録されています。
参加した保護者の声(島根スタタリングフォーラム「親の話し合い」の記録。複数の保護者と進行役が順に発言する場の、保護者1人の発言)
昨夜中学生がとてもどもりながら手話落語をしましたね。娘は、落語自体を楽しんで笑っていました。私は、その子があんまりどもるので、つい笑うのを止めてしまいました。その後、娘は、私の顔色を見て、笑うようになりました。止めた自分にも、笑う自分にも腹立たしさを感じました。
舞台に立ったのは、とてもどもりながら手話落語を演じた中学生でした。娘は落語そのものを楽しんで笑っていた、と母は書いています。母が止めたのは、その子がどもることのほうに気を取られたからでした。そして娘は母の顔色を見て、笑うのを再開した。止めた自分にも、それを見て笑う自分にも腹立たしさを感じた、というのがこの記録の中身です。笑いを止めた側も、それで晴れやかになったわけではない——面白がった自分を責めるだけでは、どちらにも行けなくなることが、ここに残っています。この場の進行役は、笑いには、さげすみやからかいの笑いではなく、共感や励まし、思わずにっこりとしてしまう笑いがあります、と応じ、笑いは大切にしていきたいと述べています(台帳: V0115)。子どもが自然に笑うのはよい、笑いたければ笑えばよい、ただ相手が傷ついたと感じたらそのとき本人に伝えたらいい、というのがその続きです(台帳: V0115)。
出典: 第7回島根スタタリングフォーラム 親の話し合い(日本吃音臨床研究会)(台帳: V0115)
境目をどこに引くかについては、当事者団体が具体的な形で公開しています。英国の当事者団体が2024年1月に更新した指針は、取材する・配役する・話す・一緒に働く相手が吃る人であるときの応じ方として、さえぎらずに話し終えるまで待つこと、ときどきうなずいて聞いていると伝えること、自然な目線を保ち居心地悪そうな顔をしないことを挙げています。続けて、話し方の良し悪しを口にしたり、流暢に話せたことを褒めたり祝ったりしないよう求め、その理由を、吃音が悪いことだという考えを補強してしまうためだとしています。そして、吃ったときに冗談にしないこと、憐れまないことを挙げ、いちばんよいのは吃る声を歓迎し受け入れることだとまとめています。この指針は、英国の言語聴覚士の職能団体の承認を受けたものだと同じページに記されています。
つまり境目は「笑ったかどうか」ではなく、その人の話し方そのものを笑いの対象にしたかどうかのほうにあります。落語を笑うのと、どもり方を笑うのは、同じ場で起きていても別のことです。指針は、吃音や吃るという語を失敗や出来の悪さの代名詞として使うのをやめてほしいとも求めています。
「実は吃音で」と伝えると、まわりはどう受け取るのか
真似やからかいを受けた側が取れる手のひとつが、自分から先に伝えることです。ただし、これは本人にとって簡単な選択ではありません。実際にそれを選んだ大学生の記録が、新聞の取材に残っています。
当事者本人の声(岐阜県の男性51の長男・大学生/新聞の取材記事。父と本人がそれぞれ取材に応じており、この段は記者が本人の話をまとめた地の文と本人の言葉からなる)
当事者の長男も取材に応じてくれた。中学校で吃音の話し方をまねされ、からかわれて悩んだという。対策のため、自己紹介のたびに、吃音とは何かや、自身の話し方をまねしてほしくないと伝えるようにすると、からかわれなくなった。
長男は「吃音は見た目で分からず、正しく知らない人が多い。自己紹介で吃音を打ち明けると、気持ちの面で一歩前に踏み出せるかもしれない」とエール。
中学校で話し方を真似され、からかわれて悩んだ——出発点は、この記事の最初に出てきた記録と同じ場所です。この人が取った手は、自己紹介のたびに、吃音とは何かと、自分の話し方を真似してほしくないことを伝えることでした。記事はそのあと、からかわれなくなったと書いています。本人は、吃音は見た目で分からず正しく知らない人が多い、と語り、打ち明けることで気持ちの面で一歩前に踏み出せるかもしれない、と続けています。この人は言語聴覚士から、話し方の訓練だけでなく吃音とどう向き合うかという精神面のケアも受けており、大学生になった今は自身の経験を生かそうと言語聴覚士を目指して勉強中だ、と記事は結んでいます。ここで効いているのは、伝えるという行為そのものよりも、伝えるときに何を言うかだったかもしれません。そこには実験の裏づけがあります。
出典: 吃音を取り上げた記事(東京新聞「すくすく」)(台帳: V0161)
テキサス大学オースティン校の研究者らが2017年に行った実験があります。面接の場面を撮った動画を観察者338人に無作為に割り当てて見せ、話し手が冒頭で「情報を伝える形で吃音を明かした場合」「謝る形で明かした場合」「明かさなかった場合」で、見た人の印象がどう変わるかを比べたものです。情報を伝える形の文言は、原文では「始める前に、私が吃音であることをお伝えしておきます。音や語句を繰り返すのが聞こえるかもしれませんが、私の言うことで分からないところがあれば、遠慮なく聞いてください」という趣旨のものでした。
結果として、観察者は、情報を伝える形で明かした話し手を、謝る形で明かした場合よりも、また明かさなかった場合よりも、友好的だと評価しやすい傾向がありました。自信があるという評価では差がいちばん大きく、情報を伝える形が謝る形より高く、謝る形でも明かさない場合より高く評価されていました。著者らは、情報を伝える形の一言は、明かさないことを選ぶよりも聞き手の受け取り方を肯定的にする、とまとめ、外向的・自信がある・不安げといった評価では効果の大きさが中くらいだったとしています。
ただし著者ら自身が、吃音を明かすことがすべての状況・すべての人にとって有益とは限らない、と結論に書いています。使うかどうかの判断も、返ってくる反応も、人によって変わりうるためです。これは平均の傾向であって、誰かに開示を勧める根拠にはなりません。
画面の中の「どもる話し方」と、実際の吃音
実在の吃音の出方は、公的な解説にまとめられています。音を繰り返す連発(「ぼぼぼぼくは」)、音を引き伸ばす伸発(「ぼーーーくは」)、言葉がなかなか出ない難発(「……ぼくは」)という3つが主な症状です。演出として作られる「つっかえる話し方」は、このうち音の繰り返しに寄りやすい一方、実際には言葉が出ないまま間だけがあく難発も同じくらい中心にあります。学会の解説は、思春期以降には連発や伸発よりも難発が中心になる、と書いています。
もうひとつ大きく違うのが、出方が一定ではないことです。学会の解説は、歌うときや2人で声を合わせるとき、独り言を言うときなど、一時的に流暢になる人が多いとしたうえで、調子が良い状態や悪い状態が数週間から数ヶ月にわたって続く人も多く、こうした症状の変動を(調子の)「波」と呼ぶ、と説明しています。相談の場面でも、養育者が強く疑って連れてきた子が、目の前ではあまり症状を出さないことが多い、と公的なポータルは指摘しています。その日その場面のなめらかさが、その人の吃音の全体ではないということです。
そして、隠れている部分があります。学会の解説は、失敗の経験が重なると話し始める前に不安や恐怖を感じ、次第に会話や社交を避けるようになること、言いにくい単語を言い換えるなどの工夫で吃音を隠そうとすることがあり、その場合は目立たなくなるが、実際は吃音が出ないかを日々警戒しながら生活していることを書いています。英国の当事者団体の指針も、吃音はいつも分かりやすいわけではなく、否定的な反応が予想されるときには語や場面を避ける人が多い、と述べています。
作品の描写と実際の吃音のずれについては、映画『IT』のビルと吃音の記事で個別に扱っています。作中の人物に診断名を当てられない理由と、描く側・話題にする側の手がかりはアニメ・漫画の吃音の記事に、描写を見た当事者が何を受け取っているかは吃音のアニメキャラの記事にまとめてあります。
最後に、指針が事実として並べている項目をそのまま置いておきます。吃音は弱さでも欠陥でもなくただの吃音であること、呼吸のしかたが悪いなど本人が何か間違ったことをしているから起きるのではなく神経に関わるものであること、緊張しているから吃るのではないこと(緊張して見えるとすれば、それは話し方を繰り返し笑われてきたからであることが多い)、工夫を学んで管理したり和らげたりはできても治すものではないこと、吃音があることはその人の能力や知性について何も語らないこと、そして成長すれば自然に無くなるというものではなく、生涯にわたって吃る人もいればそうでない人もいること。
気になったときの相談先と、制度の後ろ盾
自分や家族、あるいは身近な友人の話し方が気になったときの行き先を置いておきます。日本吃音・流暢性障害学会の解説は、子どもについては、小児を扱う言語聴覚士や、ことばの教室の教員に相談しましょう、と書いています。中高生以上・成人の場合は、本人が治療を希望するなら言語聴覚士による発話訓練という選択肢があり、発話訓練だけで症状が改善しない場合や吃音への不安が強い場合には、カウンセリングや心理療法が役立つこともある、としています。
同じ立場の人と出会える場もあります。学会の解説は、吃音のある当事者が「吃音があるのは自分だけではない」と認識し、共通の体験を語り合い、苦悩を分かち合い、互いに援助し合うことが自助団体の活動の中心だとしたうえで、1965年に発足した言友会が日本で最も歴史が古いこと、近年は若者を対象とした団体や女性の集いを開催する団体も設立されていることを紹介しています。この記事で引いた声のうち1本も、こうした場の話し合いの記録です(台帳: V0115)。
制度の側の後ろ盾もあります。学会の解説は、2016年に施行された障害者差別解消法により、学校や職場での吃音に対する差別的言動および差別的扱いが禁止されているとしたうえで、発表や電話応対の免除、試験等での面接時間の延長などの配慮——法律の言葉では合理的配慮、つまり本人の申し出に応じて学校や職場が行う調整のことです——を求めることができると書いています。その際に医師の診断書や言語聴覚士の報告書の提出などが求められる場合があるとも添えられています。電話が苦手な人については、2021年から総務省が主体となり公共インフラの一つとなった電話リレーサービスを使うことができ、困り感の軽減につながっている、と公的なポータルは書いています。
次のようなときは、様子を見るだけにせず、相談を考えてみてください(あくまで目安で、当てはまらなくても相談して構いません)。
- 自分や家族の話し方が気になって、頭から離れない
- 話しにくさのせいで、発表・音読・電話・通話などを避けはじめている
- 子どもが「自分の話し方をまねされた」「笑われた」と話している
この3つは、相談を考えるきっかけとして一般的に挙げられるもので、特定の資料が「受診の目安」として定めているものではありません。
キャラクターの話し方をめぐって陥りがちな3つの落とし穴
落とし穴1 − 作中の人物に、現実の診断名を当ててしまう
「あのキャラクターは吃音症だ」と決めるのは、作り手が公にしていない限り、話し方の演出から健康の状態を推し量る行為になります。実在の吃音には、音の繰り返しのほかに、音を引き伸ばす出方、言葉が出ないまま間があく出方があり、同じ人でも調子の波があります。数十秒のせりふの印象で判定できるものではありません。作中の人物についてどこまで言えるかは、アニメ・漫画の吃音の記事で扱っています。
落とし穴2 − 「本人がいないから大丈夫」と考える
その場に当事者がいなくても、同じ話し方をする人はどこかで見ています。教室で同級生の吃音が笑われた場面を見た人は、まるで自分がバカにされたかのようにものすごく辛かった、と書き残しています(台帳: V0207)。学校では真似・笑い・質問が実際に起きており、そのリスクを毎年確かめることが勧められているほどです。通話や配信の場も、そこは変わりません。
落とし穴3 − 笑ってしまった自分を責めるだけで終わる
笑いを止めた側も、それで晴れやかになるわけではないことは、当事者の家族の記録が示しています(台帳: V0115)。自助の場の進行役は、さげすみやからかいの笑いと、共感や励ましの笑いを分けたうえで、相手が傷ついたと感じたらそのとき本人に伝えたらいい、と述べています(台帳: V0115)。当事者団体の指針は、さえぎらずに話し終えるまで待つこと、流暢に話せたことを褒めないこと、吃ったときに冗談にしないことを挙げています。次の会話でできることのほうに、目を向けたほうが確実です。
よくある質問
ゲームのキャラクターのつっかえる話し方は、吃音なのですか?
作り手が自分から公にしていない限り、作中の人物に現実の診断名を当てることはできません。画面の中の話し方は作り手が選んだ演出で、診断ではないからです。実在の吃音は、音を繰り返す・音を引き伸ばす・言葉がなかなか出ない、という3つの出方が主だと説明されています。
キャラクターの真似をして笑うのは、いけないことですか?
笑うこと自体が禁じられているわけではありません。自助の場の進行役は、さげすみやからかいの笑いと、共感や励ましの笑いを分けて語っています(台帳: V0115)。ただし、目の前の人の話し方そのものを笑いの対象にすることは別です。当事者団体の指針は、吃ったときに冗談にしないこと、憐れまないことを挙げ、いちばんよいのは吃る声を歓迎し受け入れることだとしています。
友だちの話し方を真似してしまいました。どうすればいいですか?
やめることが先で、そのうえで次の会話の作法を変えるのが確実です。当事者団体の指針は、さえぎらずに話し終えるまで待つこと、ときどきうなずいて聞いていると伝えること、自然な目線を保ち居心地悪そうな顔をしないことを挙げています。また、話し方の良し悪しを口にしたり、流暢に話せたことを褒めたり祝ったりしないよう求めており、その理由を、吃音が悪いことだという考えを補強してしまうためだとしています。
吃音があることを、自分から伝えたほうがいいのでしょうか?
一方向には言えません。面接場面を撮った動画を観察者338人に見せ比べた実験では、情報を伝える形で吃音を明かした話し手のほうが、謝る形で明かした場合や明かさなかった場合より、友好的・自信があると評価されやすい傾向がありました。ただし著者ら自身が、吃音を明かすことがすべての状況・すべての人にとって有益とは限らないと結論に書いています。伝えるかどうかは本人が決めることです。
吃音のある人が笑いの役として描かれるのは、なぜ多いのですか?
当事者団体は、吃音が長いあいだ性格の欠陥や身体的な不足を表すため、また笑いを取るために使われてきた、と書いています。そのうえで、そうした型にはめた描き方は現実の帰結を生み、流暢に話す人より弱く能力が低いと誤って受け取られ、話し方に否定的で不適切な反応を向けられることが多い、と続けています。研究の側でも、吃音のある子どもが自分と重ねられるリーダー役の有名人がメディアやスポーツの世界にほとんどいないことが指摘されています。
まとめ
- ゲームのキャラクターの話し方は作り手が選んだ演出で、作中の人物に現実の診断名は当てられない。実在の吃音は、音の繰り返し・音の引き伸ばし・言葉が出ないまま間があく、の3つが主な出方で、調子の波もある。
- その話し方の真似は、画面の外の人に届く。部活で真似された当事者は、笑ってやり過ごしても数日は引きずったと書き、相手に吃音であることを伝えてやめてほしいと頼んだ(台帳: V0102)。学校では真似・笑い・質問が実際に起きている。
- 本人がいない場所の笑いも見られている。同級生の吃音が笑われる場面を見た人は、まるで自分がバカにされたかのようにものすごく辛かったと書き残している(台帳: V0207)。
- 笑うこと自体は禁じられていない。さげすみやからかいの笑いと、共感や励ましの笑いは分けて語られている(台帳: V0115)。境目は、その人の話し方そのものを笑いの対象にするかどうかにある。
- 応じ方は指針の形で公開されている。さえぎらずに話し終えるまで待つこと、流暢さを褒めないこと、吃ったときに冗談にしないこと。気になったときは言語聴覚士やことばの教室へ。