伊藤亜紗 吃音|本人が語る言い換え・当事者3人の声と研究

目次

『どもる体』という本の名前や、伊藤亜紗さんという名前を入り口に、吃音のことを調べ始めた——という方は多いと思います。「この人自身に吃音があるのだろうか」「本には何が書いてあるのだろう」と、まず輪郭をつかみたくなりますよね。

この記事では、伊藤さんが公開されたインタビューで自分の吃音について語った言葉と、『どもる体』を読んだ当事者が書き残した記録を並べます。そのうえで、「話す本人の側から吃音を見る」という向きが研究の中でどう扱われてきたのかを、ミシガン州立大学・ニューメキシコ大学・リムリック大学の論文と、金沢大学の研究室が運営する吃音ポータルサイトの記述に照らして確かめていきます。

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吃音当事者。研究論文と当事者の声をもとに、吃音の情報を出典つきで発信しています。

この記事は情報提供を目的としたもので、診断や治療の判断に代わるものではありません。気になる症状があるときは、言語聴覚士やことばの教室にご相談ください。

まず結論から

  • 言いにくい語を別の語に置き換える「言い換え」は、聞き手からは見えにくい反応として研究でも扱われています。500人を超える成人への調査では、約半数が少なくともときどきこうした行動をとっていました。
  • 外から流暢に聞こえていても、本人はより大きな努力を払っている場合があります。観察できるどもりが無いことを「吃音が無い」の指標に使うのは危うい、と論じられています。
  • 吃音のある成人13人に面接した研究では、多くの人が言葉の前に来る「予感」と、コントロールを失う感覚を語りました。
  • 吃音は長いあいだ「聞き手が何を見聞きしたか」で決められてきましたが、その前提そのものが成り立たないかもしれない、と問い直す論文があります。
  • 同じ「伊藤」でも、日本吃音臨床研究会の伊藤伸二さんは別の方です。

ただし、この記事が扱えるのは、本人が公開の場で語った範囲と、出典にある研究が言えている範囲までです。吃音の出方も感じ方も人によって大きく違い、同じ人でも場面によって変わることが報告されています。

「言い換え」は、頭の中の編集者がやっている

伊藤亜紗さんは美学と現代アートを専門とする研究者で、『どもる体』の著者です。その本の名前を入り口に来た人がまず知りたいのは、たいてい「この人自身はどうなのか」という一点だと思います。本人が対談記事の中で、自分の話し方についてこう説明しています。

伊藤亜紗さん(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院・准教授/専門は美学、現代アート。著書『どもる体』)。劇作家・平田オリザさんとの対談記事より

自分の中に“編集者”がいる感覚です。「Aというワードを使いたいけど、Aだと吃音が出て言えないから、同じような意味のBというワードを使いましょう」と。いつからか覚えていないくらい前から“言い換え”はあって、今はもう無意識でやっています。

この対談の地の文には、伊藤さんが物心ついたころから吃音と向き合ってきたこと、いまはあまり現れないが治ったわけではなく、吃音が出そうな単語を同じ意味の別の単語に言い換えていることが書かれています。言い換えをするかどうかは人それぞれで、隠したくても隠せない人も、別の工夫で回避する人もいる——「あー」「えー」を言葉の前に入れる、違う人格を演じる、リズムに乗る。そう並べたうえで伊藤さんは、工夫すること自体に罪悪感を持つ人がいること、言い換えで回避したときには言えなかった単語のほうが明確に意識に残ることにも触れています。この「外からは見えないところで起きていること」は、研究の側でも数えられています。

出典: 吃音を抱えてどう生きるか――「コミュ力」が強調される社会で(Yahoo!ニュース 特集)(台帳: V0531)

500人を超える吃音のある成人を対象にした調査では、特定の音・語・場面を避ける、どもりそうだと思ったときに語を言い換えるといった、聞き手には観察されにくい行動を、約半数が少なくともときどきとっていました。1〜2割は「よく」または「いつも」とっていると答えています。外から見える反応も、外からは見えない反応も、どちらもよくあることだと整理されています。

そして、なめらかに話すための技法を使っているとき、聞き手には流暢に聞こえても本人はより大きな努力を払っていることがあります。そうして得られた流暢さは吃音のない人の自然な流暢さとは別物だとして、「見せかけの流暢さ」という呼び分けがされてきました。外から分かる乱れがまったく無いまま、コントロールを失う感覚だけを感じている場合もあります。

話す前に「来る」のが分かる——注意をどこに置くか

伊藤さんは、自分について語るだけでなく、他の当事者に話を聞く側にもまわっています。情報学研究者のドミニク・チェンさんへのインタビューは、聞き手と語り手の両方が当事者という珍しい記事になりました。チェンさんが、どもりの予感が「来る」のを先に感じてしまうという話をしたあと、伊藤さんが自分の側の工夫を差し出します。

ドミニク・チェンさん(情報学研究者/起業家。記事内で「見た目にはほとんど分からない『隠れ吃音』タイプ」と紹介)と、聞き手の伊藤亜紗さん。「伊藤」と付いた発言が聞き手のもの

その意味ではどもりは射程が広すぎて、来るのを予測しちゃってるからどもるのかなあ。

伊藤 確かに私はその射程を狭くするために、戦略的に注意を「横に広げている」ような気がします。自分で用意してきたことを言おうとしたり、言おうとする言葉をチェックしたりすると吃音が出るので、むしろ目の前で起こっていること、たとえば目の前に座っている人が何か言いたそうにしていることとかに注意を向けるようにするんです。もちろん、それができる日とできない日があって、緊張すると外部の情報をキャッチできないけど、リラックスしていると、外部の情報が細かい粒子で、あれもこれもって感じで入ってくる。

この記事でチェンさんは、吃音について初めてまとまって語ったと紹介されています。歌を歌うときになぜどもらないのかを考えるととても不思議だ、一度暗記した歌詞を歌っているときは先を予測することを一切意識していない——そう説明するチェンさんの言葉を受けて、伊藤さんは「注意を横に広げる」という自分のやり方を差し出しました。用意した言葉を自分で点検しはじめると出る、だから点検をやめて目の前の相手のほうへ注意を移す。聞く人と語る人の両方が当事者で、対処のしかたを交換する場面になっています。言葉が出る前に何かが「来る」というこの感覚は、研究でも記述されてきました。

出典: ドミニク・チェン×伊藤亜紗(WIRED.jp)(台帳: V0187)

吃音のある成人13人に面接した研究があります。語られた体験そのものを読み解く手法(現象学的な質的研究)で分析したもので、そこでは話し手が言葉の前に予期を体験し、それに対して何かをする形でも、何もしない形でも反応していました。多くの人が「コントロールを失う感覚」を語り、それは話す計画が十分に組み立てられていないことや、自分が動かしているという手応えの乏しさと関わっていました。

さらにこの研究は、外から見える典型的などもりの動きを、多くの話し手が「話そうとしたことの直接の結果」ではなく「その体験への反応」として感じている、と述べています。見えている部分は結果の一部であって、原因そのものではない、という整理です。

吃音のある成人13人への面接(現象学的な質的研究)から取り出された、どもる瞬間の体験の構造を枝分かれで示した図。言葉の前に予期があり、それに対して何かをする形でも、何もしない形でも反応する。コントロールを失う感覚は、話す計画が十分に組み立てられていないことや、自分が動かしているという手応えの乏しさと関わる。外から見えるどもりの動きは、話そうとしたことの直接の結果ではなく、体験への反応として感じられている。聞き手とのやりとりは体験そのものに影響しうる。体験は治療・時間の経過・セルフヘルプ、そして場面によっても変わる。割合ではなく、語られた中身の分類。
図1: 「見えている動き」は結果の一部で、原因そのものではないという整理。出典: Tichenor & Yaruss (2018) Am J Speech Lang Pathol 27(3S).

『どもる体』を読んだ人は、どこに頷いたのか

では、この本を読んだ当事者は何に反応したのでしょうか。読んだその日のうちに書かれた読書録が公開されています。

桐生あんずさん(三浦半島在住のエンジニア/個人ブログ)

吃音はいわゆる連発と呼ばれる、「たまご」と言いたくても「た、た、た、たたまご」と最初の言葉が何度も出てきてしまう状態から始まるとされている。

その状態に対して恥ずかしさを強く覚えたり、コンプレックスを強く感じるようになると「難発」といった、「……っ、……っ、たまご」と「連発」をできるだけ避けて言葉が出なくなる状態がしばらく続きやっと言葉が出る話し方に移行する。この状態になるととてもストレスを感じさせられる状態になると書いてあって、ちょっと共感する部分があった。

書き手はこの本を、治療法を書いた医学書ではなく、当事者がどう吃音を捉えて行動しているかを考察した本として読んでいます。体が思い通りにならず、言いたいことが頭の中にあっても発声を思い通りに行えない状態という説明が腑に落ちた、と書いています。自身は小学5年の頃から吃音があり、いつの間にか連発が出るようになり、そのあと難発が出るようになり、言い換えをするようになって今に至る——本に書かれていた順番が、自分が通ってきた道と重なったという読み方です。一方で、いまも自分の吃音について話すのも話されるのも少し苦手だ、とも書き添えています。外から見える症状と、内側で起きていることは同じではない——研究の側も、同じところで線を引いています。

出典: 「どもる体」(著: 伊藤亜紗)を読んで思ったこと(はてなブログ)(台帳: V0517)

吃音とともに生きる体験を扱った質的な研究を系統的に集めたレビューがあります。2000年以降の論文45本を通読し、最終的に17本を突き合わせて統合したもので、そこから5つのテーマが取り出されました。回避によって吃音に対処すること、吃音が就労の経験に不利に働くこと、吃音が自分をどういう人間だと思うかを形づくること、吃音が否定的な反応を招くこと、そして人間関係に悪い影響を与えることの5つです。

本を読んだ人が「自分のことが書いてある」と感じる部分は、こうして研究の側でも繰り返し記述されてきた領域と重なります。このレビューは結論として、吃音が個人の生活の体験に及ぼす影響は深く、そして主に否定的なものだと述べています。

吃音とともに生きる体験を扱った質的研究をまとめたレビューが記述した5つのテーマを放射状に並べた図。回避で吃音に対処すること、吃音が就労の経験に不利に働くこと、吃音が自分をどういう人間だと思うか(自己像)を形づくること、吃音が否定的な反応を招くこと、吃音が人間関係に悪く影響すること。2000年以降の質的研究を突き合わせて記述されたもので、割合の報告ではない。図の中の位置に意味はなく、順位でもない。
図2: 本を読んだ人が頷いた領域は、研究の側でも繰り返し記述されてきた。出典: Connery, McCurtin & Robinson (2020) Disabil Rehabil 42(16).

言い換えという逃げ道が無い場面がある

言い換えができるなら困らないのでは、と思われるかもしれません。けれど、言い換えようのない言葉を、決まった場面で言わなければならないことがあります。

marr さん(書店 alma books の運営者/note)

代表して「おはようございます」という時に最初の言葉が出てこない。決まり切ったフレーズを言わなければいけない場面で言葉が出てこない。言わなければいけないという気持ちが拍車をかけてさらに言葉が遠のいていく。頭の中では「おはようございます」という言葉が浮かんでいるのに、体が拒否していて発する事が出来ない。これでかなり悩んだ事がある。

『どもる体』の感想として書かれた文章の一節です。書き手は、連発が詰まりながらも言葉が出るのに対して、難発は言葉が出ず体が緊張した状態で、伝えることができないため意思疎通の面でかなり困難な状態を引き起こす、と整理しています。朝礼の挨拶、そして電話の「もしもし」。決まった言葉を決まった場面で言わなければならないとき、普段使っている言い換えという逃げ道が消えます。直に接した人にこの話をしたら「えっ?そうなの?」と感じるだろう、とも書いています。最近はあまり出なくなったが、「いつ出るのだろうか」という不安は常につきまとう——それがこの文章の締めに近い一節です。検査で測れる重さと、本人が抱えている負担は、必ずしも一致しません。

出典: どもる体/伊藤亜紗(note)(台帳: V0518)

吃音の重さをはかる標準的な検査は、外から観察できるどもりの行動を測る道具としては信頼できる一方で、話す場面を避ける・別の言葉に言い換える・吃音を隠すといった、外からは見えない側面を捉えられません。原典自身が、それらは吃音という体験の重要な要素だとしたうえで、隠す形の吃音が中心の人については結果の読み方に注意が要る、と断っています。

同じ論文は、重さと負担が食い違った先行研究も並べています。不安の強さは本人が感じている影響とだけ関係し、どもった音節の割合のような外から測る指標とは関係しなかったという報告、そしてどもり方の複雑さが心理的な苦痛や本人の申告した影響と対応しなかったという報告です。重さの指標は、心理的・社会的な負担をそのまま予測するわけではない——それがこの部分の結論です。

「聞き手から見た吃音」から「話す人から見た吃音」へ

ここまで並べてきた4つの記録には、共通する一点があります。どれも、外から見える話し方ではなく、話している本人の側から吃音を説明しているということです。この向きは、研究の中にも同じ流れとしてあります。

まず前提として、吃音はほとんどの場合、聞き手の目と耳を通して定義されてきました。古典的な文献には「吃音という語は聞き手が下す判断を意味する」とまで書かれています。ところが観察される行動は場面によって大きく変動し、聞き手の判断そのものの確からしさにも疑問が出されてきました。そのため、「どもる瞬間は、聞き手が見聞きしたものから正確に決められる」という前提自体が成り立たないかもしれない、とこの論文は述べています。話し手自身の視点は、ほとんど取り入れられてこなかったとも書かれています。

同じ問題意識から、話す本人がどう体験しているかを直接聞き取る研究が出てきました。場面によって出方が変わることについても、これまでの記述の多くは聞き手の側の視点からのもので、話す本人の視点をとらえた研究は乏しい、と指摘されています。

吃音のある10人に面接した研究では、語られた「場面による変わりやすさ」が4つのまとまりになりました。ばらばらに見える出方と周期的なパターン、その日の内側の状態にかかわること、特定のきっかけ、そして社会的な場面で自分がどう見られていると感じるか、の4つです。研究は、このうち「どう見られているか」への意識が目立つことが、以前から言われてきた変動のとらえ方とも重なると述べています。

吃音のある10人への面接から取り出された、場面による出方の変わりやすさの4つのまとまりを枝分かれで示した図。ばらばらな出方と周期的なパターン、その日の内側の状態にかかわること、特定のきっかけ、社会的な場面で自分がどう見られていると感じるか、の4つ。4つめについて原典は、以前から言われてきた「社会的承認への関心」という捉え方と重なると述べている。並び順に意味はなく、順位でもない。
図3: 場面による変わりやすさを、聞き手ではなく話す本人の側から聞き取った4つのまとまり。出典: Ortiz-Alvarez & Arenas (2025) J Fluency Disord.

そしてリハビリテーションの専門誌に載ったレビューは、臨床家が障害学(障害を個人の欠陥ではなく社会の側の壁として考える研究領域)と関わって自分たちの実践を強め、吃音のある人に向けられる否定的な態度のような、社会の側がつくった障壁に自分がどんな役割を果たせるかを考えるべきだと提言しています。

もう一人の「伊藤」——伊藤伸二さんは別の方です

吃音を調べていると、もう一つ「伊藤」という名前に行き当たります。日本吃音臨床研究会の会長・伊藤伸二さんです。伊藤亜紗さんとは別の方で、活動の場も立場も違います。混ざったまま読み進めると、誰が何を言ったのかが分からなくなってしまうので、ここで分けておきます。

研究会が扱う書籍の一覧には、伊藤伸二さんが編著者として名前を連ねた本が並んでいます。そのうちの一冊の紹介文は、吃る人の悩みが解決されないのは、吃音をなめらかに話せないこと(非流暢性)の問題としてのみとらえてきた古い吃音観に起因しているのではないか、という問題提起から始まると説明しています。そのうえで、吃音の問題を「治す」から「吃る事実を認める」へ、さらに吃音とうまくつき合いながらどう生きていくかという「生き方」の問題としてとらえ直していく必要を訴える本だとしています。吃音研究者と当事者の共同の取り組みから生まれた本で、大阪のセルフヘルプグループでの話し合いや講座の様子が多く紹介されている、とも書かれています。

二人の名前が並ぶ場面が多いのは、日本語で吃音を「治す/治さない」の外側から書いた人が、そもそも多くないからだと考えられます。ただし、書いたものも立場も別々です。

本を読んだあと、どこに相談できるか

読んだあとに「では自分はどうすればいいのか」と思ったなら、そこから先は本ではなく人に相談する段階です。

子どもについては、ことばの教室と言語聴覚士が相談先として挙げられています。小学校に入っても吃音が引き続き見られる子どもでも、適切な指導・支援を受けることで、多くの場合、身体の緊張を伴う重い吃音があまり見られなくなったり、緊張をうまくコントロールしながら話す方法を身につけたりして、日常生活の中でそれほど大きな支障なく過ごせるようになるとされています。なお、保護者の接し方のまずさが原因で子どもに吃音が生じるわけでは決してない、とも明記されています。

大人については、話し方の症状だけを扱う枠組みでは足りないという指摘が出ています。目に見える発話の症状に焦点を絞ったやり方は、回避や、内側に取り込まれてしまった考え・感情といった見えにくい部分の広がりに見合っていないとして、人をまるごと見るやり方を採ることが勧められています。

臨床で長く使われてきた練習の一つに、わざとどもってみせる「随意吃」があります。ただし、成人当事者自身の視点からその役立ち方を調べた研究は比較的少ない、と原典自身が述べています。成人12人に面接した研究では、語られた経験が5つのまとまりになりました。怖さに慣れていくこと、どもっている自分に気づくこと、自分で決めている感覚と自分を受け入れること、どう実施するか、そして支えてくれる人との関係です。自分の本当のどもり方に似せた随意吃は、恐れと回避を減らし、自分で決めている感覚を高めうるとされる一方で、不快さもあり、一人ひとりに合わせて調整すべきだとも書かれています。

次のようなときは、様子を見るだけにせず相談を考えてみてください(あくまで目安で、当てはまらなくても相談して構いません)。

  • 決まった場面で言葉が出ず、生活や仕事に支障が出ている
  • 話す場面そのものを避けるようになっている
  • 外から見た重さは軽いと言われたが、本人の負担が大きい

この3つは、相談を考えるきっかけとして一般的に挙げられるもので、特定の資料が「受診の目安」として定めているものではありません。

『どもる体』を入り口に調べるとき、陥りがちな3つの落とし穴

落とし穴1 − 一人の語りを「吃音のある人みんなの話」として読む

本にも、この記事にも、個人の語りが並びます。けれど吃音の出方は人によって違い、同じ人でも場面によって変わります。場面による変わりやすさを本人の側から聞き取った研究でも、語られた要因は4つのまとまりに分かれ、どれがどう効くかは一人ひとり違っていました。誰かの語りは「こういう経験がある」という一例であって、自分や家族に同じことが起きるという意味ではありません。

落とし穴2 − 「言い換えができているから軽い」と受け取る

標準的な重症度の検査は、避ける・言い換える・隠すといった外からは見えない側面を捉えられないと、原典自身が断っています。そして、観察できるどもりが無いことを「吃音が無い」「治療がうまくいった」の指標に使うと、当事者の集まりから外されたり、訓練を受ける資格から外れたり、実際には話すこと自体を避けているだけなのに支援を早く打ち切られたりする危険がある、と指摘されています。流暢に聞こえることと、楽であることは別です。

落とし穴3 − 名前の似た人・団体を取り違える

伊藤亜紗さんと、日本吃音臨床研究会の伊藤伸二さんは別の方です。読んだ内容を誰の言葉として覚えるかは、あとで人に伝えるときに効いてきます。書名と著者名をセットで控えておくと取り違えにくくなります。

そして、読んで気づいたことは書き留めておくと役に立ちます。どんな場面で出やすいか、どのくらい続いているか——相談のときに、外から見た重さだけでは伝わらない部分を補えます。

よくある質問

伊藤亜紗さんは吃音の当事者なのですか?

公開されている対談記事では、物心ついたころから吃音と向き合ってきたこと、いまは吃音が出そうな単語を同じ意味の別の単語に言い換えていることを、本人が一人称で語っています。この記事で扱えるのはその公開された範囲までで、現在の症状の重さをここで推し量ることはしません。なお、外から流暢に聞こえていても本人はより大きな努力を払っている場合があるとされ、観察できるどもりの有無だけで判断することはできないとされています。

『どもる体』を読めば吃音は治りますか?

治療法を書いた本として読まれているわけではありません。日本語の書籍の中には、吃音の問題を「治す」から「吃る事実を認める」へ、さらに吃音とうまくつき合いながらどう生きていくかという「生き方」の問題としてとらえ直す必要を訴えるものもあります。治療や支援の相談先としては、ことばの教室や言語聴覚士が挙げられています。

「言い換え」は吃音の症状に入りますか?

聞き手には観察されにくい反応として扱われています。500人を超える成人への調査では、語の言い換えや場面の回避を約半数が少なくともときどきとっており、1〜2割は「よく」または「いつも」とっていました。標準的な重症度の検査はこうした隠れた側面を捉えられない、と原典自身が断っています。

伊藤亜紗さんと伊藤伸二さんは同じ人ですか?

別の方です。伊藤伸二さんは日本吃音臨床研究会の会長で、同会が扱う書籍の一覧に編著者として名前が並んでいます。紹介されている本は、吃音を「生き方」の問題としてとらえ直す立場から書かれたものです。

本を読んで自分の吃音が気になりました。どこに相談すればいいですか?

子どもについては、ことばの教室や言語聴覚士の指導・支援が挙げられており、多くの場合、日常生活の中でそれほど大きな支障なく過ごせるようになるとされています。大人については、話し方の症状だけに絞った枠組みでは、回避や内側に取り込まれた考え・感情の広がりに見合わないとして、人をまるごと見るやり方が勧められています。

まとめ

  • 伊藤亜紗さんは美学と現代アートを専門とする研究者で、公開された対談記事では、吃音が出そうな単語を同じ意味の別の単語に言い換えていることを本人が語っている。言い換えのような外からは見えない行動は、500人超の調査で約半数が少なくともときどきとっていた。
  • 外から流暢に聞こえていても本人の努力は大きいことがあり、観察できるどもりが無いことを「吃音が無い」の指標に使うと支援から外れる危険がある。
  • 『どもる体』を読んだ当事者の記録は、連発から難発、そして言い換えへという移り変わりと、体が思い通りにならない感覚に反応している。研究の側でも、見えている動きは「話そうとしたことの直接の結果」ではなく「体験への反応」だと述べられている。
  • 「聞き手が何を見聞きしたか」で吃音を決めてきた前提は問い直されており、話す本人の視点から場面の変わりやすさを聞き取る研究も出ている。成人の支援も、話し方の症状だけでは足りないとされる。
  • 相談先としては、ことばの教室と言語聴覚士が挙げられている。そして日本吃音臨床研究会の伊藤伸二さんは、伊藤亜紗さんとは別の方。

参考文献

  1. Tichenor, Herring & Yaruss (2022) Understanding the Speaker's Experience of Stuttering Can Improve Stuttering Therapy. Top Lang Disord.(デュケイン大学/ミシガン州立大学)
  2. Tichenor & Yaruss (2018) A Phenomenological Analysis of the Experience of Stuttering. Am J Speech Lang Pathol 27(3S).(ミシガン州立大学)
  3. Ortiz-Alvarez & Arenas (2025) A phenomenological exploration of the contextual variability of stuttering. J Fluency Disord.(ニューメキシコ大学)
  4. Connery, McCurtin & Robinson (2020) The lived experience of stuttering: a synthesis of qualitative studies with implications for rehabilitation. Disabil Rehabil 42(16).(リムリック大学)
  5. Mutlu & Cemali (2025) Assessment of occupational balance and life satisfaction in adults who stutter. BMC Psychol.(ロクマン・ヘキム大学/トラキア大学)
  6. Young, Byrd & Richardson (2025) An interpretative phenomenological analysis of voluntary stuttering experiences of adults who stutter. J Commun Disord.(ニューメキシコ州立大学/テキサス大学オースティン校)
  7. 日本吃音臨床研究会「吃音に関する書籍と教材」
  8. 吃音ポータルサイト「吃音の原因と予後」(金沢大学 小林宏明研究室)

当事者の声の出典: V0531(Yahoo!ニュース 特集・伊藤亜紗さんと平田オリザさんの対談)/ V0187(WIRED.jp・伊藤亜紗さんによるドミニク・チェンさんへのインタビュー)/ V0517(はてなブログ・桐生あんずさんの読書録)/ V0518(note・marr さんの読書録)。いずれも公開記事。引用は原文どおり。

更新履歴: 2026-09-12 公開